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第153回 東京小説読書会の報告


2019年11月16日、ヘンリー・ジェイムズ著『ねじの回転』を課題に、第153回東京小説読書会を開催しました。

※※※以下ネタバレを含みます※※※

本作は、ロンドン郊外の邸宅に「家庭教師」として採用された女性(役名はなく「私」として登場)の回想録として、物語が展開します。この邸宅には、親に先立たれた子どもが2人。兄マイルズは「10歳に満たない年齢」、妹フローラは8歳です。伯父が2人を引き取っているものの、同居はしておらず、子育てにはほとんど関与しません。

邸宅では、家政婦のグロース夫人をはじめ、何人かの使用人が雇われています。

屋敷は広大で、庭には池があり、住居棟のほか塔まで建っています。

そんな屋敷で着任早々、「私」は亡霊を目撃します。亡霊は男女ひとりずつ。その容貌を話すと、グロース夫人は、男性は元使用人のピーター・クイント、女性は「私」の前任家庭教師のジェセルだと断定しました。

「私」は、亡霊が子どもたちに悪影響を及ぼしているのではないかと疑いはじめ、幽霊との関係を探ります。しかし子どもは「幽霊は見えない」と否定するばかり。

次第に「私」はヒステリックになり、子どもを追い詰めていき……、といったお話です。

■難しい小説

今回、課題本の版元は指定しませんでしたが、ご参加6名中、4名が新潮文庫の新訳(小川高義訳)、1名が東京創元文庫(南條竹則訳)、1名が新潮文庫と光文社古典新訳文庫(土屋政雄訳)の併読でした。

会の冒頭で一言ずつ感想をうかがったところ、異口同音に「難しかった」「ほかの人はどう読んだのか、感想を知りたい」といった声があがりました。

とりわけ、「私」に抱きしめられたマイルズが息を引き取る結末に疑問を抱いた方が多く、「このオチは何を意味しているのか」「あまりにも唐突すぎないか」といった戸惑いも聞かれました。

■語るべきところを語らない

オチのマイルズの急死だけでなく、本作では肝心な部分で、因果関係が曖昧にされています。

たとえば、マイルズは物語の前半で停学処分を下されるのですが、その理由は最後まで明かされません。

その一方で、「私」がピーター・クイントを始めて目撃した際の描写は、とても細かくなされています。

「遠目で見たというのに、よくそこまで細かく記憶できるよね」と、ツッコミを入れたくなるほどです。

これらのことに関して、一人のご参加者から、「分かりにくいのは著者ヘンリー・ジェイムズのたくらみだろう」と解説していただきました。

いわく、ジェイムズは、自作の戯曲が酷評されたことなどから、読者に挑戦状を叩きつける思いで、あえて分かりにくい小説を書いたのではないか、とのことです。

些末な部分は細かく、肝心なところはぼんやりと、オチは唐突に。あえて、読者を突き放す作品を書いたというのです。

戸惑った読者のうち、ある者は論文を書き、ある者は脚色して映画や舞台に仕立て、またある者は読書会を開いて意見交換をする……。

まさに今回の読書会じたい、ジェイムズのたくらみに乗せられていたのですね!

■「マイルズは死んでいた」説

肝心なところがぼかされている本作は、そのぶん、多様な読み方ができる作品でもあります。なかでもマイルズの退学と急死に関してさまざまな憶測が飛び交い、「もともとマイルズは死んでいたのではないか」という説を唱える方もいました。

その方によると、「14章のマイルズの会話から、生きている感じがしないと感じた」のだそうです。

「私」のことを試しているかのような、達観したセリフ回しから、「マイルズは死んでいると確信した」のだとか。

また、「校長先生はマイルズが死んでいると知っていて、『もう亡霊をよこすな』と、退学処分を下したのではないか」とも話していました。

「実は死んでいた説」、説得力がありますね。

■「マイルズは同性愛者」説

また、マイルズは同性愛者だったのではないか、という説も。

「マイルズがピーターに教わったか、吹き込まれたかして、そういったことに目覚めさせたのではないか。それで、学校でも同級生にちょっかいを出して、退学させられてしまったのではないか」

この説には一同、騒然。

しかし「遠回しな表現やセリフ回しから、同性愛だった可能性はあるかも」「時代が時代だけに、一発退学になる理由としても十分」といった賛同意見も多数寄せられました。

「同性愛説」も説得力がありますね!

■「マイルズ=ダグラス」説

これは割と定説のようですが、序章に登場するダグラスがマイルズその人ではないか、という感想もありました。

※序章では、暖炉のまわりで数人が語り合っていて、その一人のダグラスが、「子どもが幽霊を見せられたという、変わった話を聞いた」と、くだんの家庭教師の手記を披露するところから、本題が始まります。

ダグラスは、「これから語る話に、私が好きだった人が出てくる」「その人は10歳も上」と話しています。具体的に誰のことを指しているのか明かされていませんが、マイルズと「私」の年齢差はおよそ10歳ですから、マイルズがダグラスだったとしても不思議ではありません。

この説も、もっともらしく思えてきますね。

■亡霊が現れるとき

マイルズ以外にも謎はたくさんあります。たとえば、亡霊は本当に表れているのか――。

本作で「亡霊が見える」と明言しているのは「私」だけです。

マイルズも、フローラも、グロース夫人も、その存在を否定しています。

彼らには本当に見えていないのでしょうか。

それとも「私」に知られたくない何かがあるため、隠しているのでしょうか。それさえ分かりません。

このため、読者を大変な不安に陥れるのが、『ねじの回転』という小説の特徴でしょう。怖いのは亡霊ではなく、亡霊が「私」にしか見えないこと。あるいは、見えているのに他の同居人が口をつぐむことです。

ご参加者の一人は、「亡霊が登場するシーンにふせんを貼っていったところ、後半になるにつれ、登場間隔が狭くなり、どんどん加速していった」とご報告。

この方はまた、

「家庭教師が不安を感じると亡霊が現れる。ジェイムズの『ある婦人の肖像』に、『精神的に追い詰められた人は幽霊を見る』といった描写があることを思い出した」

とも話していました。

■新潮新訳は悪訳か

今回多くの方が読まれた新潮新訳については、「意訳がすぎるのではないか」という声も聞かれました。特に、「家庭教師がイヤな女として脚色されている」という感想が多いように思いました。

また、「訳者あとがき」には、本作の訳業が非常に困難であることや、原著のバリエーションによって訳文が異なることなどが書かれているのですが、「このあとがきは蛇足」「言い訳でしかない」と、猛批判を浴びていました。

私ことUranoは、そこまで新潮新訳に違和感を覚えませんでしたが、閉会後に会場近くの古書店に行ったところ、文庫100円コーナーで新潮文庫の旧訳(蕗沢忠枝訳)を発見!

さっそく読んでみたところ、新訳とは異なる印象を受けました。

私にとって旧訳は「再読」になりますから、「分かりやすかった」との感想を抱くのは、ある意味当然です。

「新訳より旧訳のほうが読みやすい」と言うのは、フェアではありません。

しかし、登場人物の印象がまるで異なるということだけは、声を大にして言いたいと思います。

簡単に言うと、以下のような感じです。

<マイルズ>

新訳:こざかしく、計算高い。純粋を演じている。

旧訳:純粋さが自然で、セリフ回しが子どもらしい。

<私(家庭教師)>

新訳:猜疑心が強く、疑心暗鬼。

旧訳:不安感が強いが、あまり勘ぐったりしない。

<グロース夫人>

新訳:感情的。

旧訳:理論的。

もっとも、これは私の個人的な感想に過ぎませんので、参考程度としていただけますと助かります。

それにしても、ここまで印象が違ってくると、「訳文の読み比べ読書会」というものも開きたくなってしまいますね。

いずれ何かの折に企画してみようかな~。

2019.11.16開催、11.22記

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