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第131回 東京小説読書会の報告


2019年5月15日、大江健三郎著『万延元年のフットボール』を課題本として、第131回東京小説読書会を開催しました。

今年は1989年以来、30年ぶりの改元の年!

ならばぜひ元年モノで!と、決定いたしました。

しかしマニアックな選書のせいか、参加者は私ことUranoを含めてわずか3名。

久しぶりに開催が危ぶまれましたが、『万延元年のフットボール』は濃密な読み応え十分の小説だったこともあり、たいへん充実した読書会となりました。

※※※以下、ネタバレを含みます※※※

■見せ場の多さ

 本書は冒頭が抽象的で、かなり取っつきにくい小説だと思います。私は、同著者の『同時代ゲーム』を苦労しながら読んだトラウマがよみがえりました。

 ほかのご参加者も「書き出しが分かりにくくて、とんでもない本を手にとってしまったと思った」と話されていました。

 しかし、退屈なのはほんの束の間。5ページほどして、語り手(僕=蜜三郎)の友人の自殺が語られると、ミステリの様相が強まります。

 ここから先も、僕が障害児を育児放棄したことや、アメリカ帰りの弟・鷹四との再会、ふるさと(愛媛県の大窪村)への旅立ち、先祖が主導した万延元年(1860年)の一揆のこと、鷹四によるフットボール・チームの結成など、コンスタントに見せ場があり、退屈することなく読み通すことができました。(ちなみに舞台は一揆から100年後の昭和35年=1960年です)

『百年の孤独』や『薔薇の名前』に比べ格段に読みやすく、挫折する懸念は最初の5ページのみで、その後はサクサク読めたというのが、3名の参加者の総意でした。

 ただし、挫折せずに読めるとはいえ、分かりにくいのは事実です。

「著者が何を意図してこれを書いたのか、分からない」という感想は、本日、何べんも聞かれました。

■なぜフットボールなのか

 意図不明の設定のうち最たるものが、タイトルにもなっている「フットボール」です。鷹四はふるさと大窪村で、若者を集めてフットボール・チームを結成し、曾祖父が主導した万延元年の一揆をなぞるように、チームを武装集団として鍛え上げていきます。そして、財力にものをいわせやりたい放題のスーパー・マーケット経営者への復讐を果たすのです。

 一連の話は、ストーリーとしては面白いのですが、「なぜフットボールだったのか」「なぜ襲撃したのか」が、よく分かりません。ある参加者はこう語っていました。

「フットボールはおそらく暴力の比喩だろう。鷹四は学生運動に参加するなど、社会意識の高い人物だったが、大窪村の若者はそうではなく、学生運動には興味をもたず、そもそも主義や理念ももちあわせていなかった。しかし一方で、100年前には、そんな集落で一揆が起きていたのである。100年間で失われた『集落の声』を呼び戻すうえで、起点となったのがフットボールだった。でも、なぜフットボールが手段に選ばれたのかと聞かれると、よく分からない……」

 そうなんです。本書は面白く読み進められるのですが、気がつくと「つまるところ、よく分からない」という袋小路に入ってしまうのです……。

■大江が描くふるさと

 アメリカ帰りの鷹四はインテリです。彼がふるさとの若者を呼び寄せて暴動を起こす展開について、「地方の後進性や閉鎖性が強調されている」と読む参加者もいらっしゃいました。

 この方はなんと、大江健三郎と同郷(愛媛県旧大瀬村)とのこと。大江は幼少期から有名人で、中学生のころには教師をしのぐ知性で知られ、それが仇となって先輩からいじめられるなど、かなり浮いた存在だったそうです。地元にいたのは高校1年まで。翌年には松山市の高校へ転校し、卒業後は東京大学に進学しています。

 そうした経歴を踏まえ、「大江健三郎はたぶん田舎が嫌いだったのではないか」と話されていました。

「出る杭は徹底して叩く風土に、大江はなじめなかったはず。インテリの鷹四が若者を扇動していくストーリーからも、ふるさとのことは、あまり好きではないのかなと感じた」とのことです。

 ちなみにその方は、「大江は愛媛県の作家ではなく、純然たる東京の作家という気がする」と話されていました。

 私も〈谷間の青年たちは、指導者なしでは、何ひとつちゃんとしたことをやれないんだよ〉(講談社文芸文庫、p106)という鷹四のセリフに、閉鎖的なコミュニティにひそむ「長いものに巻かれろ主義」や「待ち組根性」を見た気がしました。

■異民族チョウソカベ

 大江の「四国モノ」には、著者が幼少期に聞かされた昔話が多分に反映されています。本書でそれを強く感じるのが、チョウソカベの描写です。

〈かれら(※主人公の遠い先祖)は強大なチョウソカベに永く追いたてられつづけて、森の深みへ、深みへと入りこんでゆき、わずかに森の浸食力に抵抗している紡錘形の窪地を発見して、定住した。〉(p76)というくだりは、集落の起こりを語ったものですが、まるで神話ですよね。

 大江と同郷のご参加者によると、現地では実際に、まるで異民族であるかのように長宗我部を語っているのだそうです。

「四国のうち、伊予(愛媛)・讃岐(香川)・阿波(徳島)の3国は古くから交流があったのに、土佐(高地)だけは険しい山並みにはばまれ、陸路が確立されていなかった。そんななか、はじめて土佐から山越えをしてきたのが、戦国大名の長宗我部元親だった。私の祖父母の代までは、長宗我部を異民族とする伝承がしっかり伝えられてきたと聞いた」

 また、「チョウソカベとカタカナ表記をすることによって、異質な存在であることがより一層際立ってくる」という感想も聞かれました。

■悪文なのか

 大江健三郎はよく悪文といわれるそうです。実際、本書にも、文意をくみ取りにくい箇所は多数ありました。

「デッサン力があるのに、強引なデフォルメをしていて、ピカソのようだと感じた。本当は分かりやすく書けるのに、あえてクセを入れて書いている気がする」というご指摘には、私もその通りだと思いました。

 また、登場人物の思考や行為自体が複雑であるというご指摘も。

「ふつう、人物の心理や行動を書くときは、『AだからBになる』というように、因果を1セットで書くものだと思う。しかし『万延元年のフットボール』では、『Aがあり、Bがあり、Cがあり、Dがあり……、Xになる』といったように、複数の感情が入り混じって1つの行為がもたらされている場面が多い。登場人物の心理を正確に書いているのだろうけれど、こうした描写ゆえに、否応なく考えさせられた。これほど頭を使わせられる読書体験は、そうそうない」

■本当のこととは

 本書は全13章で、各章にサブタイトルが付いています。第8章は「本当のことを云おうか」となっていますが、これは谷川俊太郎の詩の一節です(『鳥羽』所収)。

 この詩は「本当のことを云おうか/詩人のふりはしているが/私は詩人ではない」というわずか3行のもので、発表直後に話題になったそうです。大江はこの一節を引用し、鷹四は作中で「本当の事をいおうか」と語っていますが(p258)、読書会では「果たして鷹四は本当のことを言ったのか?」が話題になりました。

「自殺することで自らの思いを言ったことになったのか、それとも、はじめから言えるようなことはなかったのか。鷹四がいう『本当の事』とは一体、何だろうか」

 また、このあたりの考察から、鷹四の生き様についても話題が広がりました。

「最後までいい印象を与え続けることができた鷹四は、自殺することで勝ち逃げしたように見える。鷹四を信奉したアウトローの若者から見たら、格好いい生き方だと思えるものだろう」

 ストーリーに関しては、「鷹四が死ぬのが早かった」という指摘もありましたが、その後、鷹四の兄である語り手が前向きに現状を受け入れられるオチはとてもよく、参加者一同「このラストは好き」との感想で一致しました。

『万延元年のフットボール』は、1994年に大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した際、理由に挙げられた作品の1つでもあります。本書は分かりにくいながらもエンタメとして読むことができるので、大江と聞いて「難しそう」と思われる方にとっても、入門書としてオススメです。

ぜひ皆さんも、お手にお取りください。

2019.5.15開催、5.18記

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