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第126回 東京小説読書会の報告


2019年4月24日、アントン・チェーホフ著『桜の園』を課題本として、第126回東京小説読書会を開催しました。

「桜の季節は、桜モノを!」という理由で選ばせていただきました。

弊会で戯曲を課題本にするのは、およそ1年前の『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット著)以来、二度目です。

※※※以下、ネタバレを含みます※※※

■印象・感想

 まずはご参加者に、率直な感想をお話しいただきました。

 私ことUranoは、登場人物が多すぎて混乱してしまったのと、巻頭に「喜劇」とあるのに、「どこが喜劇なんだろう」と疑問に感じました。

 そのほかのご参加者の主な声は、以下の通りです。

「『かわいい人』などの短篇集を読んで、チェーホフは好きだった。『桜の園』は登場人物が多く、会話でしか進行しないので、途中で投げ出したくなったが、読み終えてみたら面白かった。それでも、やっぱり戯曲は苦手だなと思う」

「チェーホフの戯曲は『かもめ』以来で、上演される光景を想像しながら読んだが、あまりピンとこなかった。喜劇という感じもしない。また、桜は日本の象徴的な花だが、これを一家の盛衰の中心に置いた理由を知りたい」

「2年前にチェーホフの四大戯曲(本書のほか、『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』)をすべて読んだ。今回『桜の園』を読み返してみたら、不条理劇だと気づいた。没落の一途をたどっていることが明らかなのに、手を打とうとせず、行動しない点が強調されている」

「チェーホフは大好きで、なかでも『桜の園』は特に気に入っている。大学の教職課程で教育実習に行ったとき、最後の授業で『桜の園』を取り上げた。それほど好きな作品」

「以前、途中で読むのをやめてしまったが、今回、読了できた。喜劇性と悲劇性を兼ね備えていると思った」

■喜劇の定義

 本日は、これまでギリシア悲劇を多数読まれてきたという方や、劇作家を目指してかつて戯曲をよく書いていたという方にもお越しいただき、勉強させていただきながら進行しました。

 彼らからご指摘されたのが、「喜劇はゲラゲラ笑える作品を指すのではない」ということ。古代ギリシアのアリストテレスが、喜劇を「人間の愚かさを描いたもの」と定義づけたことに端を発して以来、演劇では、貴族が不幸になったり、昔の思い出にすがったりする、ある種の滑稽劇を「喜劇」と言っているのだそうです。

 なるほど、そうだとすれば「桜の園」は、まぎれもなく喜劇ですね!

 会では「成り上がりの商人ロパーヒンが貴族に勝つのが、究極のアイロニーである」という指摘もなされました。

■音と演出

 戯曲は上演されることを前提に書かれているため、「演出家はどう解釈するのか」と考えながら読む方も多いようです。本作ではト書きに音に関する説明が多く、登場人物がギターをかき鳴らしたり、玉突きの音が聞こえてきたりします。

 そんななか話題になったのが、「弦の切れた音」。

 第二幕のト書きに〈不意にはるか遠くで、まるで天からひびいたような物音がする。それは弦の切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。〉(新潮文庫『桜の園・三人姉妹』平成23年改版、p67)とあります。

 その直後の会話は

〈ラネーフスカヤ なんだろう、あれは?

 ロパーヒン 知りませんなあ。どこか遠くの鉱山で、巻揚機(ウィンチ)の綱でも切れたんでしょう。しかし、どこかよっぽど遠くですなあ。

 (略)

 ラネーフスカヤ なんだか厭な気持。〉

 となっています。ご参加者は「弦の音を、不穏なことの前兆として使っているのが面白いと思った。それにしても、いったいどのような音なんだろうか」と話されていました。

 ちなみに「弦の切れた音」は結末でも、先ほどとまったく同じフレーズで繰り返されます。すでに屋敷が売り払われ、庭の桜が切られるシーンのト書きであるため、一家や屋敷の未来はわかっているのですが、そこで再び「弦の切れた音」を入れることで、観劇者に余韻を持たせて劇を締めくくっています。

 こうした描写は戯曲ならではのもので、とてもいいですよね!

■人の動きの不自然さ

 本作は文庫本にして120ページほどの短い作品ですが、その割に登場人物が多く、読者を惑わせます。しかも彼らが自由奔放に屋敷に出入りしているので、余計に混乱してしまうのです。

 冒頭は、家主の帰宅を待つシーンですが、そこに使用人に交じって商人ロパーヒンがいるのです。

 私は、「なぜお前がここにいる!?」という素朴な疑問を抱いてしまったばかりに、スムーズに作品世界に入っていけず、その後も同じような場面があるたびに、「ロシアの屋敷のセキュリティはどうなっていたんだろうか」と、いらぬ心配をしながら読んでしまいました。

 このことについては、「当時のロシアの貴族邸宅は、なかばサロンのような存在で、多くの人が出入りしていたのだろう」と解釈される方がいました。確かに、併読しているドストエフスキーの『白痴』でも、「気づいたら見知らぬ人が屋敷に上がり込んでいた」という描写がありましたね。なるほど、ロシアではけっこうよくあることだったんですか……。

 新潮文庫版にカップリングされている『三人姉妹』を読んだ方からも、「似たような描写は『三人姉妹』にもあって、しかもそれが『桜の園』よりも激しい」という報告をいただきました。

■著者の中立性

 本書で軸となるのが、大地主ラネーフスカヤ一家と、成り上がりの商人ロパーヒンの対立です。没落するラネーフスカヤは、ロパーヒンの助言を聞き入れず、最終的に屋敷は競売に出されてしまいます。本日の会では、「いまだに古びずに読めるのは、チェーホフの筆力のたまもの」と賞賛する声が聞かれました。

「ふつうであれば、ラネーフスカヤを愚か者として描いたり、ロパーヒンのイヤらしさを強調したりしてしまうものだが、『桜の園』ではそういうことはない。著者はあくまでも中立的で、貴族と商人を対等に描いている。だからこそ、スッと読むことができたし、いまだに読み継がれているのだと思う」

 本書のストーリー上のクライマックスは、屋敷の競売シーンでしょう。なんと、冒頭から一家の存続についてさまざまな提案をしてきたロパーヒンが落札してしまうのです。

 このシーンについては、

「あまりにも唐突な展開でびっくり。ロパーヒンが入札した意図が分からない」

「ロパーヒンは、ラネーフスカヤ一家と一緒に暮らしたくて、屋敷を『買い戻した』という気になっていたのかも」

 などという感想が聞かれました。

 また、競売にはガーエフ(ラネーフスカヤの兄)も一緒に行っているのですが、彼は何ら手を打つことなく、落胆してロパーヒンとともに屋敷に帰ってきます。ガーエフのヘタレっぷりには呆れる声も多く、「全編を通じて、存在意義がよく分からなかった」と断じる声もありました。

■オチの美しさ

 本作は誰もいなくなった無人の屋敷で、庭に生える自慢の桜が次々に切り倒されるシーンで終わります。この切なく悲しい結末には、「余韻があっていい」と、好意的に受け取る方がほとんどでした。

「桜を残したまま屋敷を活用する手段もあっただろうに、すべて切ってしまって、過去と決別しようという結末がすごくよかった」

「下手に3割くらい残そうとするのではなく、全部切り倒す思い切りのよさがいい」

「桜を過去の象徴として描いたのがよかった」

 このほか、

「日本人は桜と聞いて染井吉野を連想するが、ロシアの桜はいったいどんな花を咲かせ、どんな意味を持つのだろうか」

 と、タイトルにもなっている「桜」について思いを巡らせる方もいらっしゃいました。

皆さんも、桜の季節にチェーホフの『桜の園』をぜひどうぞ!

ちなみに桜の季節の課題本、昨年は水上勉の『櫻守』でした。

来年の桜本は未定です。

いまからリクエストをお待ちしておりまーす。

2019.4.24開催、5.18記

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