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第122回 東京小説読書会の報告


2019年3月20日、第122回東京小説読書会を開催しました。

課題本は昨年来、にわかに話題を集めているウンベルト・エーコ著『薔薇の名前』です。

※※※以下、ネタバレを含みます※※※

■あらすじ

『薔薇の名前』は2018年9月にNHK『100分de名著』にて取り上げられ、大型書店で相次ぎ面陳・平積みされたことにより、注目を集めることとなりました。舞台は14世紀のイタリアの修道院。そこで起きた7日間の出来事がつづられています。

 時代背景として、豪華絢爛な生活を謳歌するローマ教皇派と、清貧を旨とする原理主義的なフランシスコ会との対立があります。物語は、人里離れた修道院で行われる両派の会談に臨席するべく、フランシスコ会の修道士ウィリアムと、見習い僧アドソが向かうところから始まります。(厳密には枠物語の形式をとっていて、語り手がアドソの手記を発見したところから始まります。本編はすべてアドソの手記という体裁です)

 ウィリアムとアドソが到着すると、さっそく修道院長のアッボーネからある相談を受けました。前日、一人の修道士が不審死を遂げているのが見つかり、その謎を解いてほしいというのです。

 ウィリアムは名探偵さながらに推理を開始しますが、その間にも修道士が次々と謎の死を遂げていきます。ある者は他殺体として見つかり、またある者は謎の言葉を残して急死していきました。果たして、修道院で何が起きているのか?

 これが物語の骨子です。

■挫折本かエンタメか

『薔薇の名前』はベストセラーでありながら、いまだ文庫化されておらず、上下巻あわせて税別4,600円という、なかなか手の出しにくい作品です。そんななか5名の方にご参加いただきました。ご参加者のなかには、「邦訳刊行時の1990年に読破して以来、およそ30年ぶりに再読した」という方もいらっしゃいました。

 本書は長大であるばかりか、14世紀のキリスト教社会の思想や出来事が関係しているため難解で、代表的な挫折本でもあります。そこでまず、その点について話し合いましたが、多くの方が「面白く通読できた」と話されていました。特に、冒頭でウィリアムがシャーロック・ホームズさながらに「修道院長の愛馬のゆくえ」を推理する場面で、「これなら読めると思った」という方もいらっしゃいました。ちなみに、ウィリアムにしょっちゅう「そんなことも分からないのか」となじられるアドソは、ワトソンそのものです。

■異形の建物

 もう一つ、本書をミステリーに仕立てているのが、修道院の一角に建つ「異形の建物」です。四隅に八角形の塔をそなえた武骨な建築物で、実はこれ、文書館なのです。物語は、ここに収蔵されている古写本をめぐって進行していきますが、文書館は部外者立入禁止になっていて、しかも複雑な迷宮になっています。

 ウィリアムとアドソは隙をみて文書館に侵入し、平面図を書いて、迷宮の謎を解いていくのですが、このあたりの描写はとても面白く、究極のエンターテインメントという気がしました。

 私ことUranoは、文書館の緻密な配架に感激し、「こんな図書室が自宅にも欲しいなぁ」と妄想しながら読み進めていきました。

■テーマの現代性

 さて、本書のテーマについてですが、「中世が舞台でありがら、現代に通じる課題を描いている」という指摘がありました。

 その一つが「性愛と欲望」です。修道院は男だけの世界であるため、BLさながらに同性愛が問題になります。また、そうした環境ゆえに、一部の修道士は夜な夜な村娘を呼び込んで関係を結んでいます。

 いま一つが「権威」。智の殿堂たる文書館を制するものが、修道院を制します。そして文書館長の座をめぐる争いが、連続不審死を引き起こす修道院の闇を形成していきます。

「知識を制し、それを小出しにできる者が強いという設定がリアルだった」「権威に固執すると弊害が出てくる。旧態依然の組織を活性化するには、新しい血を入れなくてはならないが、そうすると権威者は危ぶまれる。その葛藤が描かれている」  などという感想が聞かれました。

■宗教とは何か

 物語の黒幕が、盲目の老僧ホルヘです。彼は「笑い」を忌み嫌い、「キリストは笑わなかった」と言い張ります。かたやウィリアムは「キリストは笑った。なぜなら、笑いこそ人間であるから」と反論しますが、ホルヘは頑として聞き入れようとしません。

 この議論について、「執筆当時の冷戦という社会背景が、エーコに『笑い』をテーマにさせたのではないか」と指摘する方もいました。

 結末において、ホルヘは文書館の中でウィリアムと対峙しますが、「このシーンは感動的だった」という声も。

「笑いについての考察が面白かったし、宗教とは何かを考えさせられた。笑いを封じるのは、宗教に権威を与えることにつながる。やはり、宗教とは恐れられてナンボなんだと思った。そこでは、真実がどうこうということは問題にならない」

 なるほどー。深い読み方ですね!

 その一方で、「キリストの笑いを問題提起をしたり、一部の書物を閲覧禁止にしたり、そこに毒を仕込んだりする一連の思考や行動が、よくわからなかった。総じて、動機がよくわからなかった」という感想も。

 確かに、キリスト教の価値観や習慣がない読者にとっては、ところどころ理解に難いシーンがあるかもしれませんが、ご参加者のこんなご指摘は、読み進めるうえでヒントになりそうです。 「『薔薇の名前』では、知識とは特別な人だけが扱えるものだという思想が通底されている。悪い知識はすぐに広まるので、人を導くには言葉を大切に扱わなくてはいけない、と。だからホルヘは禁断の書に毒を塗った。その毒に触れた者が死んでも、神の思し召しというわけだ。ホルヘには、罪を犯しているという自覚さえない」

■異端とは何か

 本作の時代背景はかなり複雑ですが、大きく教皇派、フランシスコ会、ドルチーノ派の3者が登場します。

 フランシスコ会は清貧に生き、「キリスト教徒の所有する物品は、所有権のみである」と主張しますが、このことが教皇派からは異端行為と断じられます。

 また、14世紀初頭はさまざまな原理主義的修道会が勃興し、そのなかの一つとしてドルチーノ派が登場します。ウィリアムとアドソはフランシスコ会の修道士で、教皇派との会談に出席するわけですが、修道院にはドルチーノ派もいます。

 またアドソは、異端尋問を描いた写本を偶然、文書館で目にしたことをきっかけに、僧院への道中にフィレンツェで目撃した拷問(ミケーレの処刑)を回想したりもします。

 このように、アドソの視点で異端をとらえていくことについて、こんな分析をされた方がいました。

「体験を通じて異端への関心を深めていくアドソは読者そのもの。アドソが神の教えや異端裁判について思いを巡らせることで、読者もこれらについて考えざるを得ない状況に置かれる」

■結末の余韻

 この物語では、5人の修道士が不審死を遂げます。そして、明確に書かれていませんが、結末で文書館に閉じ込められた修道院長アッボーネも、恐らくは命を落としています。

 物語の終盤、ウィリアムがホルヘを犯人として追い詰めると、ホルヘはアドソが手にしていた灯りを放り投げ、それが古写本に移って建物が燃えてしまいました。さらに火の手は広がって、修道院は三日三晩燃え続けます。このシーンは圧巻。

「貴重な美写本が燃えてしまうところで、『もったいない!』『早く水を運んでくれ!』と思った」と話す方もいらっしゃいました。

 また、

「最終的に無に帰する決着が東洋的だと感じた」

「連続殺人がヨハネの黙示録を下敷きにしているのみならず、7日目で修道院が崩壊するところまで、黙示録をトレースしている」

 といった感想も聞かれました。

 さて、修道院が炎上したのち、ウィリアムとアドソはミュンヘンまで行き、そこで2人は別れます。これが今生の別れとなるのですが、「濃厚な7日間をともにすごし、その後は一度も会わなかったというのが何ともいえず、よい」という方もいました。

 また、このときアドソはウィリアムから形見のレンズ(眼鏡)を受け取るのですが、その後アドソは歳を重ねて、レンズを着用して手記を書いているという設定になっています。こうした情緒的な描写は、個人的に好みでした。

■権威に対峙する名作

 著者ウンベルト・エーコに関しては、「博学でありながら権威的になることなく、むしろ権威者に対して批判的にふるまい続けた。こうした文化人がいるイタリアがうらやましい」と絶賛する声も。

 また、NHKが『100分de名著』で本書を取り上げた理由として、「単に名作で面白いからというのではなく、いまの日本に言論の危機を感じていたからではないか」という指摘も聞かれました。

「森友事件をスクープした記者が退社するなど、NHK内でも現政権や現社会に対する危機感があったのだろう。権威について考察する『薔薇の名前』は、まさしく、いま読まれるべき一作としてラインアップに加えたのではないか」

 とのことです。

 余談ですが、NHKが発行している番組の解説書はとてもよくできていて、『薔薇の名前』を手に取る前に読まれることをおすすめします。解説書を読むと犯人がわかってしまうのですが(そもそも本報告を読まれている時点で、ネタバレしていますが)、オチがわかっていても十分楽しめる小説だと思います。

 実際、ご参加者のなかには、NHKの番組を見て興味をもち、読破したという方もいらっしゃいました。

 皆さまもぜひ、エーコ渾身の一作をお手に取り、中世の修道院の空気に触れてみてはいかがでしょう。

2019.3.20開催、5.12記

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