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第112回 東京小説読書会の報告


こんにちは!SHOKOです。2018年12月26日、東京小説読書会「長篇(シリーズ)読破版」の第10回目として、村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編」を課題本に読書会を行いました。誰もがなんとなくあわただしくなってしまう師走の最終週の水曜日でしたが、集まった8名で“ねじまき鳥”シリーズの最後となる第3部、さらにはハルキワールドの魅力について語り合う濃密な(?)時間を過ごすことができました。

以下、重大なネタバレを含みます。

「ねじまき鳥クロニクル」は村上春樹による長篇小説で、第1部の「泥棒かささぎ編」は「新潮」に1992年10月号から1993年8月号に掲載され、その後、第2部(1994年)、第3部(1995年)が書き下ろされ出版されました。(1部・2部は同時刊行)

仕事をやめた僕(岡田亨)は、雑誌編集者として働く妻・久美子と二人で平穏な日々を送っていたのですが、飼い猫である(ワタヤ・ノボル)の失踪を機に、次々と奇妙なことが起こり始めるのでした。

2部の最後に失踪した妻・クミコを探しに行こうという決意する“僕”ですが、いよいよ行動を起こすのでしょうか…?

■ハマったひと、ハマらなかったひと

個人的には2部で終わりもアリだったなと思っていたので、「3部がすごく面白かった!!」と絶賛する方々の意見に興味津々でした。なぜ“2部完結でアリだったんじゃね?”と思っていたかというと、3部の流れを物語としてとても読みづらく感じてしまったからなのでした。この読みづらさのポイントとしては“視点が増えた(語り手が増えた)”ことが一因と思われるのですが、それによって“よかった”“読みづらかった”という意見にわかれたようです。

また、実は私は再読だったのですが、全くラストをおぼえていませんでした…。そして、他の参加者の方からも“読んだことあったけど最後ぜんぜん覚えてなかったなー”と聞いてホッとしたのですが…、読み返してみると結構かっこいいラストなのに、なんで忘れてしまっていたんだろう…。指摘されて気づいたのですが、いままで明確な意志が感じられなかった主人公が笠原メイに対して“僕は君がなにかにしっかり守られることを祈ってる”という想いを抱くという、こんなにも大きな変化、ちゃんとしたオチがあるにも関わらず!

とはいえ、やはりこの煮え切らない主人公(僕)の成長を感じられないからモヤっとする、というご意見も(それもわかる…)。受け身で、しっかりと意志的に動かない人々にくらべ、拷問のエキスパート・ボリスのほうが理解できる、という見解には“なるほど”と思いました。確かに、やってることはともかく、この複雑な物語のなかで一番わかりやすい人物かなと。たぶん映像化したりすると、このキャラクターはかっこいい悪役として人気出ちゃうタイプだなとうっかり妄想してしまいました。

■さまざまな謎

綿谷昇という主人公の義兄が絶対悪化されていることに、若干違和感をおぼえてしまったのですが、どうしてここまで“悪”とされてしまうのかわからなかったなぁ…と(私がだいぶ“綿谷家”的な人間なんでしょうね!) そこで、第一回目で話し合われたことが、この物語の構造をいいあてていたと指摘されました。それは、“僕”やその周りの人々は“自然”として生きているグループで、綿谷昇を象徴とする社会的なグループとは対立してしまうのだという見解でした。また、それは戦争として描かれる帝国主義的社会の理不尽さが象徴しており、作者がシンプルにそういうものが嫌いっていうところもあるんじゃないのかなと。社会のシステム(命令系統)に常に疑問をはさむ人として、主人公(僕)の視点がありますが、それは作者の視点とイコールなのかもしれません。戦争の描写では、常に理不尽な命令に“意味がない”とわかっていながらも生き残るためには従うしかなかったという状況が生み出す悲劇が描かれていますよね。(残虐な部分の印象が強くてそれが作品の印象になってしまっていました…。)さらに、クミコやその姉、さらに加納クレタに対して描写できないほどの暴力があったのではないか、という見解もありました。また、実は加納姉妹=綿谷姉妹という発見が!

赤坂ナツメグ・シナモン親子に関しても謎がいっぱいすぎて消化しきれてなかったのですが、、夫の猟奇的な殺され方がどことリンクしてるのか?という疑問に、シナモン少年が夜中に掘り出した“心臓”ってリンクしてると思うという見解がありました。さらに、この真夜中の出来事も“クロニクル(年代記)”のひとつの記述としてとらえるという読み方もあると伺い感心しまくりました。確かにそれは違和感がないですね。軽くタイトルの意味を忘れそうになっていましたが、そう言われれば第3部は一番“クロニクル”感が強かったです!

■繊細な日常の表現

独特の比喩表現については、特に女性参加者同士で盛り上がった話題です。もう万人が知るところですが、村上春樹の日常表現(どう料理するとか、どういう服を着ていたとか)が素敵すぎます。日常のありきたりの行動って、普段はそんなに意識的に行わないから希薄になりがちですが、そんな何気ない日々のプロセスも村上春樹の小説のなかでは特別な印象をうけます。女性の服装、みだしなみについての細やかな描写って軽く“萌え”るよなと思ってしまうのですが…。

■神話に通じる世界観

主人公がクミコを取り戻そうとするプロセスを“井戸”の中で行うところが、古事記に描かれている日本の神話的な世界観があるというご意見がありました。この“井戸”がもたらす暗闇というのが重要なポイントらしいのです。日本の神話における夫婦は不完全なものを生み出すというテンプレートが、岡田夫婦の抱える問題に通じるようです。クミコが「私を連れて帰りたいのなら、見ないで」というのは、黄泉平坂のイザナギ・イザナミのエピソードを想起させます。古典の世界では、現実と幻想が今よりもだいぶ近い距離にあるので、この現実とそうでない世界が交わりあう物語の世界観にはピッタリですね。

この作品は作者がアメリカにいるときに執筆されたというところから、外から客観的に見た日本というものも表現されていたのかもしれません。また、主人公が赤坂親子と一緒に行う“治療”的なものや、井戸で起こる次元など、スピリチュアルなところに解決策をおいているところがやや不満かな(安易なのでは?)というご意見もありました。

■壮大な妄想?

作者の非凡な妄想力が物語の根源と評されて、なるほどと思ったのですが、確かにそういった部分が国内だけでなく世界中の読者を魅了するところでもあるのかなと。登場人物がみんな病んでる!と言われるくらい個性的なのは、おそらくテンプレート的でないところ、欠落していることが強調されているせいかもしれません。(人は誰しもそういう部分は抱えていると思うのですが)

また、物語だけでなく、ディテールが凝っているうえに、音楽や歴史、美術など広範囲の教養が散りばめられていて、部分的に切り取っても完成度は高いから、全体を忘れてしまっていたりするのでしょうね。(と、過去読んで忘れていたことを言い訳してみます。)

3部は1-2部にくらべバリエーションが増えている分、読みにくかった印象を受けたのですが、例えれば和食もフレンチもイタリアンも詰まったオードブル盛り合わせみたいなもので、そこから好きなものをつまめるような印象(で楽しかった)と評された方がいて、妙に納得してしまいました。読み終えて、“ぼんやり”したイメージと多くの疑問が残ったので、読書会での意見交換に今まで以上に助けられました(汗)。参加者のみなさん、本当にありがとうございました。

ちなみに、“ねじまき鳥”は僕とナツメグの共通認識下にある存在で、朝啼くみたいですよ!

次回からは、ノモンハン→シベリア→の流れで(?)ロシアの文豪の名作にチャレンジします!

2018.12.26開催、12.30記

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