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第108回 東京小説読書会 『フランケンシュタイン』X『メアリーの総て』 開催報告


​「名作」といわれる小説は、読書会でもなかなかお目にかかれないものです。『蒲団』しかり、『罪と罰』しかり、『二都物語』しかり。「存在は知っているけれど読んだことがないのが名作の定義」と言ったのは、誰だったでしょうか。

こうした名作の系譜に堂々と名を連ねるのが、今回取り上げる『フランケンシュタイン』です。……こう書くと、「あのホラー映画のノベライズ? それが名作なの?」と思う方もいるかもしれませんが、ノベライズだなんて、とんでもない!

フランケンシュタインの原作は映画発明より1世紀も昔に、この世に生を受けているのですよ。

そんなフランケンシュタイン誕生にまつわるあれこれを描いた映画『メアリーの総(すべ)て』が、2018年12月15日に封切となります! 今回は、配給元のギャガ株式会社様のご依頼のもと、映画の広報・周知を兼ね、同書を課題本とする読書会を開催しました。

なお、ギャガ様の格別のお取り計らいにより、希望読者を試写会にご招待いただきました! この場をお借りして深く御礼申し上げます。

■三大誤解

それはさておき『フランケンシュタイン』は、数々の誤解にまみれた作品ともいえます。代表的な誤解を解かせていただきますと……、

1.映画オリジナルではない。

2.著者は女性。

3.フランケンシュタインは怪物の名前ではない。

「1」についてはいま述べたとおりです。原作は1818年発行、最初の映画化は1910年です。その後、1931年の映画で演出された、「縫い痕がある四角く無表情な顔」のインパクトがあまりにも強く、同作は第一義的にホラー譚だと認識されるようになり、しだいに原作の印象が薄れてしまったようです。

「2」は意外に思われるかもしれませんが、著者はメアリー・シェリーという女性。18歳で創作に着手し、20歳のときに発表しました。うら若き乙女が、なぜこんなに恐ろしい作品を世に送り出したのか!? そのへんのことは、ギャガ様配給の映画でご確認ください。→映画「メアリーの総て」公式サイト

弊会より試写会へご招待いただいたのは8名。

「パーシー(メアリーの夫)はダメ男のはずなのに、映画だとカッコよく映った。詩作でも才能があった」

「借金を借りる才能もすごいと思った」

「旦那のクズっぷりは好き。『お互い縛られる必要はない』と、自由恋愛に踏み込む姿がよかった」

「平塚らいてうとか与謝野晶子とか、退廃的な古き日本を連想した」

「みんなクズだけど、この時代に女性が生きていくには、仕方のないことだったのかもしれない」

「メアリーは10代で子を産み、その子に先立たれ、好きな男に袖にされ、借金に追われるという悲劇的な人生だったけれども、そこに創作意欲が加わって『フランケンシュタイン』を書き上げた。孤独に向き合いながら描く姿に同情した」

……などなど、ツッコミどころや感動ポイントに尽きない名画だったようです。

話を戻して……

「3」も、世間ではあまり知られていない情報でしょう。フランケンシュタインとは、怪物を生み出した研究者ヴィクターのファミリー・ネームです。作中、怪物に固有名詞は与えられず、「魔物」「悪魔」「生き物」などと呼ばれています。

本報告では便宜上「怪物」の表記で統一しております。

さて、基礎情報を整理したところで、あらためて読書会の報告とまいりましょう。

■初フランケン率

読書会の参加者は11名。うち、初読者は8名(72.7%)でした。先ほど「名作とは読まれないものだ」と書きましたが、まさにそれを裏づける結果となりました。初読者に読み終えての印象をうかがったところ、

「執筆に対するメアリーの情熱は映画でも伝わってきたが、想像をはるかに上回る、力のある作品だった。しかも処女作というのが驚き」といった感じで、「18~20歳で書けるものとは思えない」と、多くの方が、著者と作品のギャップに萌えていたご様子です。

ちなみに、あらすじを三点でまとめると、

1.ヴィクター・フランケンシュタインは、自らつくった怪物のみにくさにおののいて逃げた。 2.怪物は「伴侶がほしい」とヴィクターに要望し、了承を取りつけるも反故にされた。

3.怪物はヴィクターへの復讐を心に誓い、実行に移した。

という感じでしょうか。

このヴィクターと怪物のどちらに、著者メアリーが投影されているのか。

映画をご覧になった方からは、

「被害者だったメアリーは、怪物そのもの」

「報いを受ける自らの姿を思いながら、ヴィクターを描いたのではないか」

「ヴィクター的なものと怪物的なものを内包するのがメアリーだ」

と、対照的な意見が出そろいました。

■恋の暗喩

本作は、「なぜ怪物をみにくく仕上げたのだ!?」という、そもそも論的な疑問なしには語れません。

「つくっている途中で、みにくさやサイズ感に気づくはずじゃ?」

というのは、誰もが思う感想でしょう。

「怪物をつくる過程のテンションの高まりに比べ、完成してからの落胆ぶりがすごかった」

というご指摘もありました。

この疑問への解として投げかけられたのが、

「恋心を表現しようとしたのではないか」というもの。

「燃え上がり方と醒め方がまさに恋。醒めたあとに感じる『なんであんなのがよかったんだろう?』という思いが、怪物を仕上げたあとで消沈するヴィクターに重なった」

なるほど! 面白い読み方ですね。

■アンチ・ヴィクター

ヴィクターに対しては否定的な意見ばかりが飛び出しました。

「怪物は、内面がとてもいいヤツなのに、ただみにくいというだけで嫌っている。外見でしか判断できないのか」

「自殺する勇気すらないヘタレ」

「さっさと死んでいれば、エリザベス(ヴィクターの婚約者)が殺されることもなかったのに」

「北極海でウォルトンに助けられたときは絶望しているのに、自分の出自から語り始める。どうかしてるよ、これ」

「ほんと、鈍感力」

などなど、罵詈雑言の嵐でした。

その一方で、技術力を評価する方も。

「最初の怪物を偶然つくってしまった割には、怪物に望まれて伴侶をつくろうと計画する。つまり技術に再現性があるということで、これはとてもすごいこと」

確かに。まともな倫理観さえそなえていれば、ヴィクターは当代一の科学者として名をなしたことでしょう。 ■名無しの怪物 怪物が名前すら与えられなかったことでも、「ヴィクターひどい!」と炎上してしまいました。 「もしもつけるとしたら『アダム』などという名前が妥当だったのだろうけど、あまりに醜悪な出来栄えから、その名をつけることはできなかったのだろう」 「名前が与えられていたら、ここまでヴィクターと怪物の間が悪くなることはなかったかもしれない」 「せめて命を吹き込んだ直後に愛情をもって接していたら、のちのちの悲劇は起こらなかっただろう」 などといった感じで、ヴィクター派も「初動のミスが大きかった」と指摘せざるを得ず、「まさか本当に命が宿るなんてと、気が動転してしまったのかもしれないが、それにしてもそのまま放置して逃げ出したのはまずかった」と擁護するのが精一杯でした。

■美醜と共依存

「怪物のみにくさは強調されているものの、具体的にどこがどうみにくいのか、あまり書かれていなかった」という話も出ました。

反対に美しい描写は多く、「怪物が本能的に美しいものに惹かれるのが印象的だった」という指摘も。そこから、「でもそんな怪物が、なぜ『自分と同じようにみにくい伴侶がほしい』とヴィクターに求めたのだろう」という疑問が湧きあがりました。

これには、

「美しかったら明るい世界に行ってしまうからでは。闇に住む仲間が欲しかったのだろう」

という解釈も。

また、怪物の意外なプロフィールとして、教養の高さがあげられるとの指摘もなされました。

「怪物は『失楽園』『プルターク英雄伝 第一巻』『若きウェルテルの悩み』を読んでいるけれど、この3冊を読んだ人は、果たしてどれだけいるのだろうか」

同時に、著者メアリーの教養をたたえる声もあがりました。

「怪物が初めて視覚を得たシーンが、最近読んだ、盲目の方が視覚を獲得したときの感慨にそっくりだった。メアリーは医学を学んでいたのだろうか」

こうして命を育まれた怪物と、命を吹き込んだヴィクターは、追うものと追われるものとなり、やがて共依存関係に陥っていきます。

「怪物は常にヴィクターの縁者を殺すことによって、自分の存在を忘れさせないように努めていく。生まれた当時は“善”だったはずが、創造主たるヴィクターに捨てられ、伴侶をつくるという約束も反故にされ、次第に心に闇を育んでいった」

その過程は、まさにホラーといえるものでした。 ■理系人必読書 最後に、私ことuranoの感想になりますが、『フランケンシュタイン』は全理系人の必読書だと思っています。「生命の根源を探求したい」というヴィクターの思いは、多くの科学者に共通するものですし、無下にすることはできません。産み落とされた怪物が、高度な知識と並外れた身体能力、豊かな感情をもつ「人間以上の存在」だったのは、ヴィクターにとっては想定外で、当人にとっては悲劇でした。 問題はそこからです。想定外の事態に陥ったとき、科学者はどう動いたらいいのか。ヴィクターは「怪物をつくったことを周囲に言うべきか、言わざるべきか」と逡巡するばかりで、これといった解決策を取りませんでした。これはいけないですね~。(でも、そこが本作で最も読み応えのある部分なのですが) ひるがえって、もしも自分が同じような境遇に置かれたとき、どのようにして事後処理をするべきなのだろうか――。いやがおうにも、そういったことを考えさせられるのが『フランケンシュタイン』なのです。そんなわけで私は、本書が話題になるたびに、「理系学部の1年生が科学者倫理を養うには、教養課程を受講するより『フランケンシュタイン』を読んだほうがよい」と言い続けています。 ※本日もこの意見を述べましたが、「理系はエキセントリックな連中ばかりだから、読んでもどうせ響かないのでは?」という、身も蓋もない返しを受けてしまいました……。うーむ、そう言われると反論できない……。

◇          ◇

さてさて、今回もいつも通りとりとめのない話ばかりでしたが、あっという間に2時間の読書会は終了。とにかく今回はギャガ様のお声掛けがあってこそ。おかげで、皆さんと一緒に『フランケンシュタイン』を味わうことができました。

ここに改めて御礼申し上げます。

シェリー『フランケンシュタイン』から200年

2018.12.7開催、同日記す

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