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第99回 東京小説読書会の報告

2018年10月17日、梨木果歩著『村田エフェンディ滞土録』を課題本に読書会を開催しました。以前、自由プレゼン形式の回で紹介されて「読みたい」と思った一冊で、梨木さんは人気だし、本書を課題本にしてみたら面白いだろうと、開催した次第です。

※※※以下、重大なネタバレを含みます※※※

本作の舞台は1899年のトルコ・イスタンブール(作中では「スタンブール」)。歴史文化研究のためトルコ政府に招かれ、下宿生活を送る村田が、同じ下宿に住む研究者のオットー(ドイツ人)やディミィトリス(ギリシア人)、下宿のおかみのディクソン夫人(イギリス人)、使用人のムハンマドなどと交流するというというお話です。

全編が村田が記録した手記という体裁で、村田エフェンディ(学問を修めた人物に対する呼称)の滞土録(トルコ=土耳古の滞在記録)というわけです。

■異色の梨木文学

梨木さんは当読書会の自由プレゼン形式の回でたびたび取り上げられる、いわずと知れた人気作家です。本日は8名ご参加のもと開催しましたが、「初めて梨木さんを読んだ」という方はお一人だけでした。ちなみにその方も「三ツ星満点評価」と、本書を高く評価されていました。

そんな梨木文学愛好者の集いとなった本日ですが、異口同音に聞かれたのは「ほかの作品とは雰囲気が違う」ということでした。特に『裏庭』『家守奇譚』『沼地のある森を抜けて』など、梨木さんのメインストリームである、じめじめとした雰囲気や「古きよき日本」を描いたお話とは対照的で、舞台がトルコということもあってか、全体的にさっぱり風味の乾いた印象とのことでした。

ほかにも、「登場人物の顔を思い描きにくい中立的な作品」という声や、「梨木さんの小説にしてはスピリチュアル要素が弱かった」という声、反対に「スピリチュアルエピソード必要だった?」と疑問を投げかけられる方もいらっしゃいました。

■最終章の必要性

本書は全18章構成です。村田のトルコ時代は17章までで、最終18章は帰国後のお話になります。トルコ時代はほんのわずか(1年ほどでしょうか)でありながら、日常茶飯なことも丁寧に描かれているのに対し、18章では第一次世界大戦後までの十数年間がダイジェスト的に描かれています。

私ことuranoは、「本書は18章がすべて」と感じました。17章までは、なんてことのないトルコ滞在記であって、印象的なエピソードはなく、「これを課題本にしたのは失敗だったなぁ」と頭をかかえていましたが、18章に至り、それまでのモチーフが次々と活かされ、「本書を読んでよかった。課題本にして正解だった!」と思いました。

しかし参加者の多くは「18章は蛇足」と話されていました……。その主張をうかがえば、

「17章まで大きな事件は起こらないけれども、スタンブールの日常を丁寧に描いた作品として十分読み応えがあった」

「物語として読もうとすると物足りないかもしれないが、路地裏や下宿などでの音やにおいの描写が多く、読んでいるだけでトルコに行った気分になれた」

「雪合戦のシーンも、純粋に面白いエピソードとして読むことができた」

「18章は、オチをつけようとして書いたように感じられてしまい、興が醒めた」

という感じでした。

■トルコ革命と明治維新

本書はトルコの親日ぶりを描いた小説ともいえるでしょう。物語の冒頭は、日本とトルコが近づくきっかけとなったエルトゥールル号遭難事件とその救出劇(1890年)で始まり、村田は、日本の救出劇に感激したトルコ皇帝に招待されたという設定になっています。

物語の途中では、つい30年ほど前に起きた日本の革命(明治維新)が語られます。村田は茶会で、大政奉還によって政権は徳川家から天皇家へ移ったこと、しかし徳川家は途絶えずに華族となり、再び天皇家の臣下に戻ったことなどを説明します。すると周囲がざわつきます。

〈ほう、というため息とも感嘆ともとれない声が一斉に漏れた。

 ――それで収まったのですか?

 氏が今度は微笑みも浮かべず訊く。

 ――上の方の人達は話し合いで納得したようですが、その下の方というのは、実はなかなか大変で、確かにあちこちで小競り合いや乱も起こりましたが、大事には至りませんでした。

 ――それは非常に奇跡的だ。〉(角川文庫・平成29年6版、p131-132)

実は、本書の舞台である1900年前後のトルコはオスマン帝国末期(1922年滅亡)で、革命前夜といえる時期にありました。作中でも〈今の政権を転覆させる計画は、実はあちこちで練られていて〉(p179)と書かれています。村田の身近では、茶会で出会ったシモーヌが無血革命をめざす一団に加入していて、はからずも村田らスタンブールの日本人に諜報員を依頼するなど、風雲急を告げる展開となっていきます。

■喧嘩しない人たち

こうした帝国末期のスタンブールにあって、登場人物は小さな多民族コミュニティを形成しています。村田は仏教徒、下宿のおかみや研究者はキリスト教徒、周囲のトルコ人はイスラム教徒です。しかしお互いに言い争うことはなく、「喧嘩の描写がない小説だった」という感想を漏らす方もいらっしゃいました。

それがよく表れている場面として多くの人が「印象的だった」と挙げたのが、キツネの根付(稲荷神)をめぐる会話です。ディクソン夫人に、「動物の神なんて珍しがられるから、お茶会でみんなに見てもらったら?」と言われた村田は――

〈――これはこれでそれなりに神聖なものなのです、ディクソン夫人。貴方がたには未開のものと映るかもしれませんが。

 ディクソン夫人は真っ赤になった。

 ――おお、ムラタ! 私が悪かったわ。そんなつもりじゃなかったのよ。-略- 信仰ということは誰にとってもかけがえのないこと。〉(p114)

■そして世界大戦へ……

村田の帰国後には、ギリシア人のディミィトリスが、本来は敵国であるはずのトルコ人の一員として政権と戦い亡くなります。これによって憲政復活(1908年)はなったものの、今度は第一次大戦が勃発。スタンブール時代の友人は散り散りになってしまいました。

ディクソン夫人からの手紙で顛末を知った村田は、本書の結びに〈国とは、一体何なのだろう、と思う。〉(p230)で始まる感慨をつづっています。これが何ともよいのですが、それから20年後には日本も戦争へ突入することを思うと憂えてきます……。

それはそうと、読書会ご参加者に聞いたのですが、本書は2005年度の高校の指定課題図書(青少年読書感想文全国コンクール)になっていたそうです。言われてみれば、国、宗教、民族、戦争、歴史など、さまざまなことを考えずにはいられない、それでいて説教くさい主義主張のない本作のような作品こそ、課題図書にふさわしいのでしょう。

とはいえ、「この作品で感想文を書くのは難しそう」という声が多数あがりました。

確かに、私も9割がた「これで読書会は難しい……。話すことあるかなぁ」と思い悩んでおりましたので、その声には賛同しました。

■鸚鵡のこと

本書は鸚鵡に始まり、鸚鵡に終わる作品です。書き出しは〈ムハンマドが通りで鸚鵡を拾った。〉(p7)。要所々々で言葉を発する鸚鵡は、作品全体を通じていい感じのアクセントになっていて、「鸚鵡がとにかくかわいかった」という感想も聞かれました。

多民族コミュニティゆえ、ときにギスギスしてしまう彼らの中心に鸚鵡はいます。決め台詞はムハンマドが教えた「It's enough!(もういいだろう)」です。

〈彼の「It's enough!」はオットーの長広舌を止めさせたり、ディクソン夫人の長い長い「ティータイム」を切り上げさせたり、と、向かうところ敵なしの猛威を振るった。〉(p102)

この鸚鵡は第一次大戦の戦地でも重要な役割を演じます。早々に帰国した村田ではなく、常に物語の最前線にいた鸚鵡こそ、真の主人公だったのかもしれません。 久々に現代小説で開催した課題図書型の読書会も、無事に閉会。 ところで、本書は95%が平穏なスタンブールのお話で、トルコ革命や第一次大戦は最終章でオマケ程度に書かれているとご報告しましたが、文庫版の裏表紙には堂々と「第1次世界大戦に友たちの運命は引き裂かれてゆく」と書いてあるんですよね。 それを見て読み始めた方は「なかなか戦争が起こらなかった」と話されていましたが、ここまで堂々とネタバレしちゃうなんて、大丈夫なのか? 角川文庫。

2018.10.17開催、12.6記

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