第106回 東京小説読書会の報告
こんにちは!SHOKOです。2018年11月30日、東京小説読書会「長篇(シリーズ)読破版」の第9回目として、村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編」を課題本に読書会を行いました。今回は相次ぐキャンセル…に見舞われ最終的には主催者含め4人という、ほぼほぼ身内だけの会となってしまいました。というわけで、だらだらまったり、まるでお茶の間感覚の雰囲気のなか、お互いに忌憚なく言いたいだけ言いたいことを言う!かなりアットホームなものになりました。お忙しいところご参加いただいた、Hさん、Oさん、そして、途中助っ人いただいたMurataさん、本当にありがとうございました!!
以下、重大なネタバレを含みます。
「ねじまき鳥クロニクル」は村上春樹による長篇小説で、第1部の「泥棒かささぎ編」は「新潮」に1992年10月号から1993年8月号に掲載され、その後、第2部(1994年)、第3部(1995年)が書き下ろされ出版されました。(1部・2部は同時刊行)
仕事をやめた僕(岡田亨)は、雑誌編集者として働く妻・久美子と二人で平穏な日々を送っていたのですが、飼い猫である(ワタヤ・ノボル)の失踪を機に、次々と奇妙なことが起こり始めるのでした。
正直、読み終えて、“途方に暮れているんです。本当に途方に暮れています。そして嫌な予感がするんです。でもどうすればいいのか、さっぱりわからない。”と、主人公(岡田亨氏)と同じ気分になってしまったのでした…。
■妻・クミコの失踪
やはり…なクミコさんの行動については、「だよね」という意見でまとまりました。むしろ、よくいままで一緒にいたよね、というくらいお互いを理解してない印象があった岡田夫妻。妻の失踪について、「途方に暮れている」といいながらも、それほど慌てている印象を受けない、本当に困っている感じがしないのです。そういう状況に陥ったとき、本当に妻を探したい!と思うのであれば、今まで疎遠だった妻の実家、親戚、そして大嫌いな綿谷昇氏にも頭を下げて接点をもつべきところなのに、やはりこの主人公は、嫌いなエリアに対しては一貫してシャットアウトを続けているところが、そもそもの問題点でもあるんじゃないかというご意見がありました。妻の気持ちを尊重するようでいて、実はそんなにその存在に執着していないようにも見受けられます。
この二人の関係性の破綻について、「妻のほうは身体で感じておらず、夫は心で感じていなかった」というご意見がありました。同じものを見ても、好き嫌いがそれぞれ違うというのは普通なことだとは思うのですが、そもそもこの夫婦は同じものすら見えていなかったのではないかという印象を受けます。夫の出張中に堕胎するという行為や、その経緯に関して疑いを持たない夫というのも、違和感をおぼえますよね。
■そして井戸へ
井戸の底に降りる主人公の行動がすごく突発的な行為に見えて、軽く混乱してしまったのですが、その辺の行動については、実は本多さんが既に予言してたとのご指摘をいただきました。2部のサブタイトルは“予言する鳥”だし。(ハッ!)予言されていたことが現実になっていくターンなのですね。極限の状態に追い込まれないと、本当に自分はいったい何がしたいのかがわからない人物なのかも、というご意見もありました。すべての事柄と距離をおきたがる友達のいない(?)主人公が様々な人たちと接触していくうちに、徐々に世界の見方が変わっていくところが描かれているという見解に「なるほど」と感心してしまいました。
第二部の最後に妻を探そうと強く思う主人公のモチベーションが、いったいどこからきたのかちょっと不思議な感じだったのですが、理解することと実感することは違うと指摘された方から、井戸のなかで暗闇と恐怖を体験して、はじめて妻の気持ちを理解しはじめ、それまで平坦だった主人公の気持ちが動き出し、最終的に明確な目的をもつにいたったのでは?というご意見をうかがい、ぼんやりしていた2部の印象が変わりました。(すごい転換点だったのか!)
■機嫌が悪いウェイトレス小説
”色彩をもたない多崎つくる~“ではありませんが、この物語の主人公もかなり色が薄いという話題になりました。(感情の動きも熱量も低いという。よくいえば、ニュートラル)それとは反対に、その周辺の人物たちはだいぶ個性豊かでカラフルです(意志や熱量を感じます。)
そして、登場する場面にはインパクトがあるけど、物語上では(たぶん)それほど大きな役割があるわけではない人物もいたりして、印象と役割のギャップに時々混乱をおぼえてしまいます。
例えば、たまたま立ち寄ったレストランの”ウェイトレス“の描写にほぼ1ページ近く費やされるので、話に関係のないところで、やけに印象に残ってしまうのです。“僕は無愛想で、機嫌が悪いウェイトレスにはかなり精通しているつもりだったが、それほどまでに無愛想で、機嫌が悪いウェイトレスを見たのは初めてだった。”と、今まで見たことのない(そしてこれからお目にかかることもないだろう)表現に思わず付箋をつけてしまう気持ち、よくわかります。独特のレトリックは春樹ワールドのお楽しみの一つで、個人的にはそれがクセになるんだよねと思うのですが、これを煩く感じる人は間違いなくアンチになるのでしょうねぇ・・・。
■失われていた何か
これは“夫婦”の物語であり、さらに“失ったものを探す”物語なのではと話し合いました。既知の情報としては作品を通して“水”のイメージと言われてます。クラゲや体液などもそのイメージに重なるのかなぁと思いました。また、身体からなにか、ぬるぬるしたものが出てくるというイメージも繰り返し使用されていますよね。(クミコさんの堕胎もその象徴かもしれません。)さらに、水を介在して汚れが移っていく、広がっていくという捉え方もできますし、社会的な現象としてみる読み方もできるような気がします。
2部の終わりで、それまで淡々といろいろな可能性を探っていた主人公が、突如として、妻を探す(救う)と決意するということは、彼のなかで欠落していたなにかをいよいよ取り戻したという印象を受けます。個人的には唐突に感じたのですが、色々な見解を聞いて実は自然な流れなのだと理解しました。
暗喩に富んだ物語を読む場合、何が何を意味しているのか、つい難しく考えてしまいがちです。でも本当にすべてのことに意味があるのか?という指摘がありました。(意味づけする必要あるの?)
普段私たちが直面する出来事や事象は、それ自身が意味を持つのではなく、それに対して“どうアクションしたか”ということで意味がもたらされる、という見解に「なるほどなるほど」と深く考えさせられてしまいました。自分が動かないとなにも変わらないし、それはただの現象なのです。
本作は当初、2部で完結する予定だったようです。確かに、2部の終わり方は、“いろいろあったけど、そこから何かに気づいた主人公が、これからなにかしようとする”という村上春樹っぽい着地をしてます。“そこでは誰かが誰かを呼んでいる。誰かが誰かを求めている。声にならない声で。言葉にならない言葉で。”確かに、これで終わっていいような気もしなくもない…。(いやいや)
最初は途方に暮れていましたが、最終的には参加者のみなさんのご意見を伺って、だいぶ自分なりに内容の理解が進んだ気がしました。おかげで、昔読んですっかり忘れていた3部を、新鮮な気持ちで読み始めることができそうです!
次回はいよいよ最終巻「第3部 鳥刺し男編」の読書会を開催いたします。2018年の締めくくりは「ねじまき鳥」で!
2018.11.30開催、12.2記