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第101回 東京小説読書会の報告


こんにちは!SHOKOです。2018年10月26日、東京小説読書会「長篇(シリーズ)読破版」の第8回目として、村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編」を課題本に読書会を行いました。3月にはじまりました本シリーズですが、豊饒の海(4部作)、悪童日記(3部作)に続き、いよいよ第3シーズン(?)に突入しました。というわけで、本シリーズの2部を11月、3部を12月に開催予定、2018年の締めくくりは「ねじまき鳥クロニクル」3部作です。

以下、重大なネタバレを含みます。

「ねじまき鳥クロニクル」は村上春樹による長篇小説で、第1部の「泥棒かささぎ編」は「新潮」に1992年10月号から1993年8月号に掲載され、その後、第2部(1994年)、第3部(1995年)が書き下ろされ出版されました。

仕事をやめた僕(岡田亨)は、雑誌編集者として働く妻・久美子と二人で平穏な日々を送っていたのですが、飼い猫である(ワタヤ・ノボル)の失踪を機に、次々と奇妙なことが起こり始めるのでした。

冒頭からハルキワールド全開の超有名な本作、さすがに参加者のほとんどが再読ということでしたが、どういうわけか、「読んだことあったけど、内容あんまり覚えてない…」という方も多く、波乱の幕開け(?)にいったいどうなることやら…(やれやれ)

■“僕”について

村上春樹の小説あるあるとして、主人公の男性がモテてるイメージという話題が上がりました。今回の参加者9名のうちの7名が女性でしたが、僕=岡田亨氏についての好感度は高かったです。家事をそつなくこなし、不機嫌な妻にも平静な態度を崩さない、そして聞き上手、うん、まぁ普通にモテそうなスペックです。ある意味“モテ”のHow To小説としても読めるかもしれません。

とはいえ、あまりにもなんでも(起こることも、来る人も)さらりと受け止めているのが、むしろ人間味に欠けていて違和感をおぼえるというご意見がありました。さらに、その“僕”という存在から受けとる違和感は、その“目的意識”のなさからも来るのではないかという考察にも“はっ”とさせられました。 感情の揺れが見えない、フラットすぎるその態度ゆえに、存在に対して徐々に不安をおぼえます。第1部の最後に、“僕”が受け取る“からっぽな箱”に象徴されているような人物だな、という感想を聞いて、“なるほど!”と思うのでした。

奥さん(久美子)が「あなたは疲れていても誰にもあたらないでしょう。あたっているのは私ばかりみたいな気がするんだけど、それはどうして?」と尋ねてしまう気持ちもわかります。それに対して、平然と「そのことには気がつかなかったな」という“僕”の態度には驚く!というご意見がありました。おそらく通常のリアクションとしては「え?そうだった?ごめん。」「そんなことないよ!」あたりが期待されると思われます。個人的には驚くほど意外なリアクションではないのですが、それは、“本人は大真面目に答えているけれど、周囲からは人をくったような態度に見えてしまうタイプ”として、身近にいるある人物が思い浮かんだからです。。。

■登場人物について

個性的なキャラクターが多く登場しますが、「死ぬ機会を逃している」「なにかを喪失している」ところの共通項があるという意見がありました。いろいろな考察のなかでも、一番印象的だったのが、加納マルタ・クレタ姉妹、本田さん、笠原メイら一般的な概念にとらわれずに“自然的”に生きているグループと、“僕”の妻である久美子、その実家の綿谷家の人々など“社会的”に生きているグループにわけられる、そしてその両者をつなぐ存在として“僕”がいるんじゃないか、という見解でした。

一般的な概念に従い、こうあるべき、そうすべきと煽られ動く“社会的“な人は、おそらく世の中の大多数でしょう。そうやって、知らず知らずのうちに大きな権力構造に巻き込まれながら、社会を構成しているわたしたちに対して、この”自然的“に生きる人々の在り方はなんらかのメッセージと取れる気がします。”目的意識“のない主人公に対して違和感をおぼえるというものの、では”本当に目的意識って必要なの?“と思い至るのです。”自然的“な”人“という存在に相容れないものが”目的意識“なのかもしれません。

■2章と6章が物語のキー?

言われてみれば確かに、、なのですが、最初はさらっと読み流してしまっていました。

2章の冒頭「ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果たして可能なことなのなのだろうか。」とは、すごく深い問いかけですよね。2章は、夫婦という関係性がはらむ永遠の謎について描かれている章です。毎日一緒に暮らしていても、ピーマンと牛肉を炒める料理が嫌いだったとか、トイレットペーパーの柄にこだわりがあっただとか知らずに過ごしてしまっている!そして、それ以外にもたくさんの知らないことがあるのかもしれないという、、そんな未知の人と一緒に暮らし寝て終わっていく人生とは??そのことを考え出すと“ねじまき鳥”の啼き声が聞こえてくるのでしょうか・・・。

そして6章は、主に“僕”が憎んでいる義兄・綿谷昇についての章でした。ここは政治批判の暗喩にとれるようです。確かに、村上春樹作品にみられる権力に対しての痛烈な批判(?…)ともとれる表現はちょいちょい気になっていたと同時に、どうしてこんなに政治構造や体制に詳しいんだろう?と思っていたのですが、それは春樹氏が団塊の世代だということがあると参加者の方から伺い納得しました。個人的にそれほど政治への関心が強いわけではありませんが、“その思想って危険じゃないの?”という問いかけ、メタファーでも十分伝わってくるなぁと感じていました。今回も、綿谷昇氏という、“いるいるこういう人”というキャラクターを通して、痛烈に訴える印象がありますね。

■死んでこそ、浮かぶ瀬もあれ、ノモンハン

本作を課題本とした経緯ですが、決定打はUさんが読みたいと言っていたから!ですが、私も以前読んだ際に、どうしてもある一場面のインパクトが強すぎて、その印象にとどまってしまい消化不良だったから読み直してみたいという思いがありました。ちなみに、ある場面というのは、おそらく少なくない方が“あれでしょ?”と察してしまうと思いますが、ノモンハンの砂漠のあの痛い場面です。読み直してみると、実はその描写は1頁くらいなのですが、再読時には“あれがくる!”とわかっていたため、ロシア兵の尋問の場面からじわじわと恐怖が押しよせてきてしまいました。。怖かった。あんなに短い場面なのに!いやいやそれ以上に、その後の井戸に落ちてからの場面のほうがという方もいらっしゃいました。冷静に考えると、特別な表現ではなく、かなり淡々と行為を描写しているだけなのですが、むしろそれゆえに読み手の想像力が掻き立てられ、戦場の残虐性を増幅させていることに気づきます。

間宮中尉の長い話は100頁近く続くのですが、初対面の老人の長い戦争体験をずっと聞いていられる“僕“ってすごいよね、と言う方がいました。確かに。。最後の数ページ不要論もありましたが、、作品が訴える“暴力”や“戦争責任”(権力構造)を考えるうえでも、長いだけではなく意味深いターンではあるようです。

■ハルキスト(村上主義者)ではないけれど・・・

参加者がそれぞれに面白かった、興味深かったとする場面は、意外にも被りませんでした。

「かつらの話はおかしくて思わず笑ってしまった。」

「“僕”が何かを取り戻す試練(戦い)についての物語に見える。」

「何かが“盗まれる”というところが反復されている。(ネコ、痛み、ノモンハン地図、そして・・・)」

「”僕“の態度のフラットさが、世の中に “落ち着き”の重要性を示している。」

「加納姉妹の妹は姉を陽とした陰の存在にみえる。姉と他者をつなぐ触媒のような存在なのでは。」

「性行為の描写は強烈なのに、 “僕”の感情の起伏が見えないので生々しさがない。」

直接的な表現を避け多くのイメージが使われていますが、それらに対して最終的に解が出るわけではありません。だからといって作中に意味のない表現はひとつもないわけで、それゆえ、テーマに囚われず各人の印象をあれこれ語りあうことは、小説を課題本とする醍醐味ですよね。

高校時代の先生の座右の銘が“風の歌を聞け”だったことがきっかけで、村上春樹作品を読むようになったという初々しい参加者の方もいらっしゃいましたが、先生も本望でしょう・・・。話題は他の作品にも及び、いつものごとくカオスのまま終了となりました。(すみません)

とはいえ、本作を没頭して読んでいる時間が幸福だった、色々な見解が聞けて楽しかった、そんなに作者が好きではないけど読んでしまった等々、課題本としたことで本作を楽しんでいただけてよかったです。参加者の皆様、どうもありがとうございました!

次回は「第2部 予言する鳥編」の読書会を開催いたします。ねじまき鳥のギイイッという鳴き声とともに、カオスの世界へ旅立ちませう。

2018.10.26開催、10.28記

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