第95回 東京小説読書会の報告
2018年9月26日、バージニア・ウルフ著『ダロウェイ夫人』を課題本に読書会を開催しました。先月の『ロビンソン・クルーソー』会の二次会で「バージニア・ウルフ、読みたいよね~」という話になり、『灯台へ』は難しそうだけれど、『ダロウェイ夫人』なら読めるかも! と、選んだ次第です。
しかし、読んでみて後悔しました……。物語の舞台は1920年代のロンドンで、ダロウェイ夫人がパーティを開く1日を描いたものなのですが、事件らしい事件は起こらず、「いったいどう解釈したいいのだろう」と、悩んでしまう読後感だったからです。ご参加いただいた皆さんも、おおむねそうしたご感想をお持ちでしたが、「卒業研究で読んだ」という心強いお方が! 会の冒頭ではまず、その方に魅力を語っていただきました。
■「その他の人物」の内面
本書は「意識の流れ」の手法によって書かれています。登場人物が行動したこと、発言したこと、感じたこと、思い出したこと、これからするつもりでいることなどが、取り留めもなく、ごった煮のようになってつづられていきます。すべての登場人物を「意識の流れ」で書いているため、視点が目まぐるしく変わるばかりか、時制があやふやになるところもあり、冷静に読まなくては混乱します。
卒研で読まれた方は、「この視点の転換がおもしろい!」と話されていました。
「喫茶店で私が本を読んでいるとき、隣にいるお客さんは別のことを考えているし、別の人生を歩んできている。そのことが表現されているという気がした。描かれている意識は次々に飛んでいくけれど、『人は確かに、1日のうちにいろんなことを考えるよね』と共感できるし、読むたびに新たな発見がある」とのことです。
視点の転換が目まぐるしい場面の一つが、前半のセントジェームズ公園。スカイライティング(飛行機雲で文字を描く広告表現)を目撃したエミリ・コーツ、セーラ・ブレッチリー、ボウリーなどの人物の内面が語られますが、これらの人物は、ここにしか登場しなかったように思います。ドラマや映画であれば、名前さえ与えられない「通行人A」になってしまう人物の内面を描くことによって、すべての人に感情があり、過去と未来があり、それが人生を成しているという、当たり前のことに気づかされるのです。
そして、視点が切り替わるタイミングでビッグベンの鐘の音が鳴るのも印象的でした。
「ビッグベンの鐘が、雑多で取り留めもない無数の意識の交錯を仲介している」という指摘に、私も「確かにそうだ!」と納得しました。
■6月の輝けるロンドン
主人公のダロウェイ夫人は、物語の前半でしきりに「6月のロンドン」を賛美します。卒研で読まれた方が一番好きな描写と語られたのもそうした一節で、原文では〈life; London; this moment of June.〉と書かれています。
直訳すれば「人生、ロンドン、6月のこの瞬間」となり、やや味気ないのですが、原文では韻の効果か、とても晴れやかで心躍る感じがします。「一番好き」という理由についてうかがうと、「瞬間的に気分が高揚するシーンであり、また、この世は刹那的な“今”が連なることでできているんだと感じられたから」とのことでした。
そのほかの方からも、
「通読してみると、たくさんの綺麗なものを見せられたような気になった」
「全体的にじわっと心に残った」
「文章の綺麗さが印象的だった」
といった感想が聞かれました。
その一方で、
「ストーリーに見るべきものがない」
「読了しても何も残らない」
「表現がスゴイということだけは分かった。まるで前衛アートを見ているようだった」
といった感想も寄せられ、好意的に受け取るか、疑問を投げかけるか、両極端な意見が集まりました。
■魅力的な人物
主人公のダロウェイ夫人を差し置いて、元彼のピーターについて多くの意見が寄せられたのは、ある意味、当然のことかもしれません。ピーターにはストーリーがあるので読んでいて面白く、「恋人なら絶対にピーターがいい」との声が寄せられました。しかし「結婚相手はリチャード(現夫のダロウェイ氏)がいい」そうで、まさに対照的な2人の男とダロウェイ夫人を描いた三角関係の物語となっています。
第一次大戦で戦友を失い、精神を病んだセプティマスも重要な脇役です。
「セプティマスとエバンズ(戦死した戦友)がデキていたなんて!」というトンデモ説も飛び出しましたが、「セプティマスは男性版ダロウェイ夫人だ」と見る方もいらっしゃいました。
さらに女性と男性の内面の描き方について、
「登場人物のうち、女性陣は目に見たことに対する印象を語り、男性陣は思考している」という違いを指摘される方も。
また、「ダロウェイ夫人はモテ期のことを何度も思い出しているけれど、1日のうちで、特定の過去だけをこれほど集中的に思い出すことなんて、あるのかな?」と話す方もいました。
■ダロウェイ夫人か、クラリッサか
会の途中から話題になったのが翻訳についてです。書き出しの一文は、土屋政雄訳(光文社古典新訳文庫)だとこうなります。
〈お花はわたしが買ってきましょうね、とクラリッサは言った。〉
原文はこうです。
〈Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself.〉
お気づきですか? 原文で「ダロウェイ夫人」となっているところが、「クラリッサ」になっているのです。これには一部方面から猛批判が!!
「原文では、現在を描くときはダロウェイ夫人、過去を思い出すときはクラリッサと書き分けられている。それなのに土屋訳では、原文のMrs. Dallowayがほとんどクラリッサに書き換えられている。これでは、まったく意味が変わってしまう!!」とのこと。
本日集められたそのほかの訳は、以下のようになっています。
富田彬訳(角川文庫・絶版)
〈ダロウェイ夫人は、お花は自分で買いに行こう、と言った。〉
丹治愛訳(集英社文庫)
〈ミセス・ダロウェイは、お花はわたしが買ってくるわ、と言った〉
Mrs. Dallowayをクラリッサと意訳することについては、「流れるようにすらすら読める土屋訳の文体には、ダロウェイ夫人とするより、クラリッサのほうが合うと判断したのでは」とする擁護論も語られました。
ちなみに本日「好きな表現」とあげられたフレーズが、富田訳の以下の一節です。
〈ひとの眼に見えるわれわれの部分は、広いひろがりをもつもう一つの眼に見えぬわれわれの部分に比較すれば、ほんの瞬間的なものにすぎないのだから、眼に見えぬ部分は生き残るかもしれない。死後も、このひとあのひとにくっついて、いや、どこかの場所にとっついてまでも、よみがえるかもしれない……たぶん、たぶん、と彼女は言うのだった。〉(p.244)
これが土屋訳だとこうなります。
〈人間としてわたしの見える部分は、見えない部分に比べて束の間の存在にすぎず、見えない部分こそが大きな広がりを持ち、生き残る可能性がある。それはあの人やこの人に密着する形で存続し、特定の場所に居つくことさえある。この理論なら、死を恐れるわたしでも信じられる。あるいは懐疑主義のわたしでも、信じると言える……。なるほど、なるほど。〉(p.265)
丹治訳も引きましょう。
〈外なる現象としてのわれわれ、われわれの目に見える部分は、それとはべつの目に見えない、広々と広がっている部分とくらべればひじょうにはかないのであり、その目に見えない部分はわれわれの死後も残り、どういうかたちでかあれやこれやの人にむすびついたり、ある場所にとりついて生きつづける、と……たぶん、そうかもしれない。〉(p.271)
皆さんのお好みはどれですか?
私ことUranoは土屋訳で読んだのですが、こうして比べてみると、情に訴える富田訳、説明口調の土屋訳、観念的な丹治訳、という気がしました。
原文と対比した方の解説によると、土屋訳は読むテンポをあげるためか、「彼女は言った」を省略する傾向にあるそうです。
また、丹治訳は原文重視のためか一文が長いのですが(上記の引用箇所でも、一息で言い切っています)、文の途中で主語や目的語を補うなど、読みやすさに配慮しています。
さてさて、そんなこんなで『ダロウェイ夫人』の展開さながらに、話題があっちへ飛び、こっちへ飛びしながら進行した会も無事に閉幕。
皆さんもぜひ『ダロウェイ夫人』をお手に取り、登場人物の意識の流れに身をゆだねながら、6月のロンドンを旅してみてください。
2018.9.26開催、10.8記