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第88回 東京小説読書会の報告


こんにちは!SHOKOです。2018年7月27日、東京小説読書会「長篇(シリーズ)読破版」の第5回目として、アゴタ・クリストフ著(堀茂樹訳)「悪童日記」を課題本に読書会を行いました。三島由紀夫の「豊饒の海」に続いて第二弾のシリーズとなります。今後「ふたりの証拠」「第三の嘘」の読書会が続きます。

以下、重大なネタバレを含みます。

「悪童日記」は、ハンガリーに生まれ、フランスに亡命した作家・アゴタ・クリストフの処女作です。1986年にフランスの名門出版社であるスイユ社から刊行されると、じわじわと評判を集め、世界20か国以上で翻訳、ベストセラーとなりました。日本でも1991年に翻訳、出版されると、多くの著名人が絶賛し、「悪童日記」のブームを起こしたのでした。

物語は、第二次大戦とおぼしき戦争末期、ある国の“小さな町”を舞台に、双子の「ぼくら」がおばあちゃんの家へ疎開したところから始まります。激しさを増す戦時下に「ぼくら」が生きる過酷な日々、非情な現実。「ぼくら」はその日常を淡々と日記にしるしていくのでした。

本作は、広くいろいろな解釈を得ている作品ということもあり、参加者の方から「感想をシェアするのが楽しみでした」というありがたい声をいただきました。シンプルに淡々と綴られる「ぼくら」の日記に皆さんは何を思うのでしょうか?

■固有名詞なし、感情表現なし

今回課題本になって初めて読んだ方、再読の方半々という割合でした。再読者の方々の感想で多かったのが「1回目より面白い。」ということでした。というのも、本作、上記の紹介で“第二次大戦とおぼしき”と記載したのは、時代や地名や人名など、固有名詞が使われていないためです。また、双子の「ぼくら」が日記をしるす際に決めているルール、作文の内容はあるがままの事実でなければならないということから、感情を表現する言葉が使われていません。感情を表現する言葉は非常に漠然としている、からだそうです。どの小説にも傾向はありますが、この小説については特に文体に慣れる、ということに手強さを感じられる方が多いのではないでしょうか。個人的には、読み返した回数分面白くなっている印象です。1回目はむしろ「ふぅん」という印象でした。(ブームにのっただけでした…。)ですので、1回読んで「ふぅん」と感じた方には“10年後の自分へ”のタイムカプセルに入れて、再読することをお勧めしてみます!

再読組の方々からは、「こんなに読みやすかったっけ?」、「次回以降への期待がますます高まった。」というご意見がある一方、初めて読まれた方々からは、「課題本でなかったら手にとらなかった、たぶん途中で挫折した…」、「何を表現したいのかわからない。」、「初めて読んだけど、なぜ今まで手に取らなかったんだろうと衝撃的だった。」などなど。いずれにしても、独特の文体には、好き、嫌いを超えてなにかセンセーショナルなものを感じるのではないかなと思います。

■児童文学になり得ないのは…

戦争で疎開した双子とおばあちゃん、一見児童文学にもなり得る設定ですが、双子もおばあちゃんも実にブラック。さらに、多くの参加者から「性描写が執拗だ」という声がありました。双子の隣人である“兎っ子”の犬との行為の場面で挫折しかけた・・・と。(挫折しなくてよかったです!)確かに本編の至るところに、性描写があり、しかもちょっと変わった嗜好のものばかりで、それらがグロテスクに淡々と描かれています。欲望のままに生きる兎っ子をはじめ、司祭館の女中、双子の従妹(偽)から母親に至るまで、特に女性の登場人物は性に対して貪欲な印象を受けます。 とはいえそれらは、隣国からの侵入を繰り返される戦時下を生きぬく人間のリアルともいえるのではないでしょうか。おばあちゃんが双子を「牝犬の子」と呼ぶのは、自分の娘である彼らの母親の性質をよく理解して言っていたのかもしれない、というご意見に納得しました。個人的には性的倒錯者の将校の存在はかなり印象的だったんですが、あまりその点については他の方からは触れられませんでした…。

■「魔女」と言われるおばあちゃん

その登場では嫌な臭いが感じられるようだった!と読者に言わしめる強烈な個性の双子の祖母であり「魔女」と周りに呼ばれるおばあちゃんですが、物語が進むにつれて、好感をもってしまいます。感情移入できる人物がほぼいない本作において、好きな登場人物としてあげる方もいました。おばあちゃん(相当働き者ですよ)の日常生活から、双子は「生きるとは」ということを学んでいくわけですが、「ぼくら」とおばあちゃんの会話の内容がいちいち秀逸です。やはり、この双子は祖母のDNAを受け継いでいるんだな、と物語を読みながらゾクゾクするという感想がありました。 最終的に双子にとっておばあちゃんの存在が誰よりも大きくなるわけですが、愛情を与えるということの定義を改めて考えさせられるのでした。好きな場面ということで複数の方が「おばあちゃんの宝物」(253頁)を挙げていました。別名、「おばあちゃんの終活」…。

■過酷な状況も超人的に生き抜く双子

「おばあちゃんの宝物」と並んで、好きな場面としてあげる方が多かったのが「恐喝」(98頁)でした。「司祭の器の小ささにほれぼれする!」とユーモアたっぷりに評される方がいましたが、司祭に自分たちの行動を問われ、「ええ、承知していますよ、司祭さん。ゆすりです。」と言い切る双子にもほれぼれします。同様に「紙と鉛筆とノートを買う」(37頁)、文房具屋に対する子供らしからぬ言動も痛快です。悲惨な内容の至るところに可笑しみを感じたという意見が多くあり、それも本作の魅力のひとつではないでしょうか。また「精神を鍛える」(30頁)など、双子が自分たちを過酷な環境に慣れさせようと訓練する表現は、まるで“心を殺すHow To本”だと思ったというのはいい得て妙です!

また、双子はどうして女中と父親を殺したの? という質問がありました。女中については、ユダヤ人の行進で曳かれてゆく女性に対する態度への報復という見解と、自分たちへの性的虐待の報復という見解がありました。司祭やおばあちゃんの発言から考えると前者の可能性が高いのですが、後者も100%ないとは言い切れないですよね。また、父親については、おそらく彼らは何の感情も抱いてなかった、たぶん誰でもよかったのだけれど、ちょうどそのタイミングで通りかかったのが父親だったという見解があり、“誰でもよかった”説にはちょっとハッとしました。確かに、双子と父親の会話は、親子の情の交流が全く感じられなくて滑稽ですよね。

■「悪童日記」とは・・・

ストイックでシンプルな表現が、読者を人間の本質に導くようです。欺瞞に厳しく、本当に思ったことしか言わない双子は実に魅力的です。ユダヤ人の靴屋への“ありがとう”は印象的でした。侵略者(ドイツとソ連)に対する彼らの徹底的にドライな眼差しと作者の強い愛国心を感じるという方がいました。当時の国際情勢について寓意的に表されていると考えると、改めて胸を打つものがあります。兎っ子や双子の母親など、女性たちの多くが蹂躙され悲惨な最期を迎えても、単に被害者という描かれ方をしていないのは、その時代の反映だからかもしれません。

本作のラストでは参加者全員が衝撃を受けました。それまでずっと「ぼくら」だった双子が、一人は国境を越え亡命、一人は元の場所に戻ります。しかも、最後の2行で唐突に起こるため意表をつかれます。この展開に「カタルシスすら感じた!」「続刊がとても楽しみになった!」というご意見を伺いました。しばし茫然とさせられるラスト、小説における必然性を大切にする読者はモヤっとするんじゃないかしら…。

今回は初参加の方1名を含む9名で開催しました。皆さんの個性的な見解を伺い、おおいに盛り上がりました。どうもありがとうございました!

次回は別々に生きる道を選んだ “スーパー双子”のその後、「ふたりの証拠」です。

Au revoir!

2018.7.27開催、7.29記(SHOKO)

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