第71回 東京小説読書会の報告
2018年3月20日、サミュエル・ベケット著『ゴドーを待ちながら』を課題図書として、第71回東京小説読書会を行いました。
この作品は「戯曲」です。
本来、「小説読書会」の範疇にないジャンルですが、「たまには面白そう」ということで、取り上げてみました。
ちなみに当初12名(主催者を含む)で開催予定でしたが、直前にキャンセルが相次いで6名の参加のもと行いました。
これもベケットの呪いなのでしょうか……。
なお、ご参加いただいた6名の中には、「これまでに7回読んだ」という方と、「3~4回読んだ」という方がいらっしゃいました。お二人とも、「読むたびに感想が変わる」と話していて、「それだけ余韻が長く、深い作品なんだな」と、改めて気づかされました。
■■■以下、重大なネタバレを含みます■■■
本作は、登場人物の2人(エストラゴンとウラジーミル)がゴドーを待っているが、最後までゴドーは姿を現さないという、オチのない話です。
待っている間、エストラゴンとウラジーミルが淡々と、他愛もないことを語り合い、そこにポッツォとラッキーが通りすがってひと悶着ありますが、これといって大きな事件は起こりません。描かれているのは「無色透明の日常」であって、一連の出来事には因果がありません。
そもそも、何のためにゴドーを待っているのかが曖昧です。いわゆる小説的な楽しみを期待して読むと、大いに裏切られることとなります。
本日はまず、その点が集中的に非難されました。
「何度も読むのをやめようと思ったが、『次のページでゴドーが現れて話が動くかもしれない』と思い、最後まで読み通した。けれども結局、ゴドーは現れなかった。いったいこの作品は何なんだ」
と、しきりに首をひねる方の姿も。
対照的に私は楽しませていただきました。もちろん、それはストーリー的な楽しみではなく、
「われわれの生活は、ともすればルーティーンの中で完結しがちだが、それではいけない。昨日と同じ今日、今日と同じ明日を漫然と過ごすだけでは、何も変わらない。そうした日常が、いかに非人間的で危険なものであるかを気づかせようとした警告の書だ」と、膝を打ちながら読了しました。
■待つべきか、待たざるべきか
このように私は「待ち組の目を覚ます作品として、発表から60年以上が過ぎているのに、いっこうに古びていない」と感じましたが、一方で「そうした生き方があってもいいと、肯定する書だ」と読まれた方もいました。
ゴドーはGodをもじったものともいわれ、「救済」の象徴であると解釈されています。
救済は明日来るかもしれないし、いつまでもやって来ないかもしれません。
けれども「待つこと」は「期待すること」でもあり、そうして過ごす時間は意外と楽しいものです。「現に、本作のエストラゴンやウラジーミルはとても仲睦まじく、楽しそうではないか!」という指摘も飛び交いました。
あなたは本作を、警告の書と読みますか? それとも、応援の書と読みますか?
■現代アートとの共通点
白水社版で訳者の高橋康也氏が寄せた「解題」には、〈演ずべき「物語」がない〉〈ふつう演劇を支えている「過去」「思い出」「秘密」「企み」などをすべて拒否〉と書かれています。
氏はまた、〈匹敵するのは唯一つ『ハムレット』あるのみかもしれない〉と、本作を激賞しています。
そんな、文学史上に燦然と輝く一等星でありながら、ただ一言「どこがすごいのか分からない」と片付けられがちな本作品。よく観劇されるという参加者の方は、
「有名な作品だが、いままでなかなか手に取る機会がなかった。今回、初めて読んでみて、現代アートに通じると感じた。ストーリーがなく、個別のシーンで面白さは感じられなかったが、表現には『おかしみ』と呼べるものがあり、最先端のアートに接した時と似た感想をもった」
と話されていました。
これには賛同意見が多く、
「表現や世界観を楽しもうと思ったら、いくらでも楽しめる」
「物語には起承転結やオチ、舞台設定が必要だと思っている人は、読めないかも」
「ビジネス書しか読まない人は、もっと読めないだろう」
といった声が寄せられました。
これから本書を手に取ろうと思っている方は、くれぐれもストーリー性には期待なされませぬよう……。
■読んで悲劇、演じて喜劇
エストラゴンとウラジーミルは、「ゴドーを待つ」という明確な目的をもっています。しかし、いっこうにゴドーは現れず、目的が達成できないやるせなさばかりが募っていきます。その間、いろいろなことを語り、試みるのだけれども、結局は以下のやり取りに帰結します。
エストラゴン さあ、もう行こう。
ウラジーミル だめだよ。
エストラゴン なぜさ?
ウラジーミル ゴドーを待つんだ。
エストラゴン ああそうか。
(白水Uブックス『ゴドーを待ちながら』p.17)
このやり取りが、一つの「オチのない小話のオチ」になっています。この展開について、「行こう、と言われても、この2人には行くところがない。自殺すら考える底辺の人たちの、八方塞がりな感じがひしひしと伝わってくる」と指摘する方もいました。
しかしその方は続けて「それであるのに、重苦しすぎず、笑いのある話になっている。そこが面白いところ」とも言われていました。
確かに本作は目的を達成できない話ですし、途中で登場するラッキーは、ポッツォから獣のように扱われ、読むだに痛々しい限りです。でも演じてみれば、意外と喜劇になるものだと、本作の映画版をご覧になった方は話していました。
エストラゴンとウラジーミルが帽子をとっかえひっかえするところや、ポッツォと重ね餅になって倒れるところなど、視覚的に見ると滑稽な場面が多く、コメディとして楽しめるそうです。
(ちなみにコメディ・テイストにするとして、現代のお笑い芸人に演じてもらうとすれば、ベケットの影響力を一身に受けているラーメンズにエストラゴンとウラジーミルを、演技力に定評があり、キャラクターが分かりやすいバナナマンにポッツォとラッキーを、ふわふわしていて独特の存在感を醸し出すバカルディに少年を演じてほしい、という意見がありました)
■後世への影響
ベケットは『ゴドーを待ちながら』で、「主人公不在の物語」という雛形をつくりました。その延長線上にある近年の作品の一つとして、本日例に出たのが朝井リョウ著『桐島、部活やめるってよ』。ゴドーはいまだに影響力を持ち続けているのですね。
また、「7回読んだ」というご参加者には関連書籍をいくつかお持ちいただいたので(ありがとうございます!)、ここでご紹介させていただきます。
高橋康也著『サミュエル・ベケット』白水Uブックス
白水社版ゴドーの訳者による、ベケットの解説書。ゴドーの作中に見られる矛盾点、表現の意図、読みどころなどを丁寧に解説しています。
田中慎弥著『神様のいない日本シリーズ』文藝春秋
ゴドーの影響を受けた近年の創作の一つ。引きこもりの息子に向かって、ドア越しに父がひたすら語りかける作品です。
小林賢太郎著「後藤を待ちながら」幻冬舎文庫『小林賢太郎戯曲集』所収
演じれば10分ほどになるコント用に書かれた戯曲。タイトルの通り、ゴドーを下敷きに書かれているそうです。
いとうせいこう著『ゴドーは待たれながら』太田出版
エストラゴンとウラジーミルのもとへ行くべきか、行かざるべきかを悩むゴドー。『ゴドーを待ちながら』を裏返しにした戯曲です。
『ゴドーを待ちながら』の次に手に取りたい作品ばかりですが、ここまで二次創作物を生むほど、影響力のある作品だったとは……。
恐れ入りました。
◇
前衛戯曲をテーマに選び、「果たして2時間もつかなぁ」と気をもんだ本日も、あっという間に会は終了。
「一人で読んだだけでは『?』な作品も、みんなで感想を言い合えるので楽しい」との声もお寄せいただきました。
ありがとうございます。
◇
さて、今月から、東京小説読書会の課題図書型の回は「通常版」と「長篇読破版」の2回制で行います。
次回(3月30日)は、「長篇読破版」の第1回開催として、三島由紀夫著『豊饒の海 第一巻 春の雪』を課題本として行います。
そのあと、次々回(4月18日)に通常版として水上勉著『櫻守』を課題に開催します。
今後もよろしくお願いします。
2018.3.20開催、3.21記