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第67回 東京小説読書会の報告


 2018年2月21日、寺山修司著『あゝ、荒野』を課題図書として、第67回東京小説読書会を行いました。常連さんから「積ん読中」と紹介され、主催2名とも読んだことがないまま「寺山修司の生涯唯一の長編小説だって!? それはおもしろそう!」と、ノリで決めてしまいましたが、ご参加いただいた方々からは「読めてよかった」「おもしろかった」といった声が多く聞かれ、本書を選んで正解だったと、ホッとしました。

■■■以下、重大なネタバレを含みます■■■

 ストーリーは、あがり症の二木建二(愛称バリカン)と、少年院を出たばかりの新宿新次の二人が、同じボクシングジムの門をたたくところから始まります。このジムを運営しているのが〈片目〉こと掘口。彼らに加え、新次と恋仲になる曽根芳子、片目の義兄で商店を経営している宮木太一、バリカンの父・二木建夫、建夫を拉致する早稲田大学自殺研究会の川崎敬三そっくりの計7人が、主要登場人物です。

 バリカンは序盤から新次に対抗意識を抱き、やがて「新次と対戦したい」と思うようになります。終盤ではジムを転籍し、最終章でバリカン対新次の決戦が行われるというのが、おおまかなストーリーです。

 読書会では、まず参加者に「誰が一番よかったか」(共感した/好きになれた/印象的だった人物)を聞いたうえで進行しました。結果は……

・宮木太一 4票

・曽根芳子 3票

・新宿新次 2票

・バリカン 1票

 主役のバリカンと新次をおさえ、脇役の宮木、芳子が票を集めました。宮木票には「こういう人物が出てくる小説を読んだことがなく、印象に残った」「展開が一番わかりやすく、物語性があった」、芳子票には「生きることを楽しんでいるようでよかった」「明るく、無鉄砲なところが好き」といった声が寄せられました。

■孤独さ

「本書の登場人物は、みなそれぞれに孤独である」というのが、多くの人のご意見でした。それぞれ、どのように孤独になっていったのか。その過程に読み応えがある、と。筆頭が新宿新次でしょうか。目的意識をもち、シンプルに自らを高めていく姿に共感された方もいて、「作中人物のなかで唯一、分かり合えそうだと思った」という意見もありました。

 もう一人の主人公バリカンは、最終15章で新次と戦い、命を落とします。この結末自体が、本作の「孤独性」を象徴しているという指摘も多く、「宮木太一が『戦争では死ぬことで相手の心に残る』と日記に書いているが、これが結末の伏線になっていた」「誰かの何者かになりたいというバリカンの思いが、ラストで発散された。BLモノとして読めた」という感想も寄せられました。

■バリカンは死んだのか

 ところで、第15章でバリカンは本当に死んだのでしょうか。文庫版360ページの死亡診断書の名前は「二木建夫」、つまりバリカンの父の名前になっています(わたしは気づきませんでしたが……)。このことから、「バリカンの死を曖昧にするため、あえて名前を変えたのではないか」という意見が出ましたが、その一方で「単純なミスではないか」という指摘も。この件については、インターネット上でも意見が分かれているそうです。ちなみに映画(2017年公開、岸善幸監督)では、ラストではバリカンの生死が分からないまま幕を閉じているそうです。

■突如現れる出走表

 片目が新次を連れて中山競馬場に行った第6章。新次は競馬新聞をたたみながら、頭の中で「もう一種類の出走表」を妄想します。11頭(人?)立ての「人生」という名のレース。この出走表については、「やっぱり松下幸之助は強いよなぁ」という感想が漏れ聞こえてきましたが、大柄であるはずのバリカンのほうが、新次よりも1kg軽く書かれていることに対する鋭いご指摘も。

「新次が妄想した出走表であるし、このことから、彼がバリカンを下に見ていることがわかる」とのことです。

■1960年代の空気

 物語の舞台は新宿、時代は1964~65年です。この時代の芸能界やテレビコマーシャルに関する小ネタが多く、「それらをすべて把握しない限り、本書のよさは理解できないのではないか」という意見が多数派でした。こうした時事ネタについては、ページ内で最低限の注釈が付されています。しかし、当時の人々の間で、どのように話題にのぼっていたのかまでは分かりません。

「いま読んでも分からない価値観や感覚がたくさん出てくるので、読みにくかった」

「読みながら、いまいちノリ切れなかったのは、自分がバリカンや新次よりも歳を重ねているためかもしれないと思う一方、時代背景への理解が浅いことも理由だと思った」

 といった意見もありました。

 しかし一方で、「60年代文学の表現を知ることができたので面白かったし、意外に現在と変わらないんだなと思った」という方もいました。

■大衆文学か、純文学か

「読みにくかった」と感想を述べた方は、「肝心なことが書かれていない」とも指摘。たとえば物語の前半で、バリカンが新次をライバル視するシーン。

〈俺のやりたい相手は、たったひとり。それは新宿新次だ。いつかは新宿新次と勝負をつけてやろう〉(p.86)というセリフが、唐突に出てきます。バリカンはいつ、何がきっかけで「新宿新次と勝負をつけてやろう」と思ったのか。そのことは最後まで明かされていません。

 ほかにも本書ではところどころで、ストーリー性が弱いと感じる場面に出くわします。「語らずに語る」のは純文学でしばしばとられる手法ですが、とはいえ、宮木太一のほかは内面もほとんど語られず、本書は純文学でもない気がします。あたかも、新宿を闊歩する人々のなかから任意に数名を取り上げ、それぞれのプロフィールを書き連ねたようにも思えます。寺山修司はあとがきでこう語っています。

〈文学価値を論議されるよりも、できるだけ多くの人に読んで貰って、そこから肉声で「話しあえる」場所へ到達する近道を見出すことの方を選びたい〉(p.362)

 語らずに語ることによって、読者一人ひとりに解釈をゆだねようとしていたのかもしれませんね。

 ◇

 本日もたくさんの意見が飛び交いました。お越しいただいた皆さま、ありがとうございました。

 今後も、寺山修司のいう「文学価値を議論するのではなく、肉声で話し合う場」として、ご参集いただけると嬉しいです。次回はサミュエル・ベケット著『ゴドーを待ちながら』をテーマに開催します。また次回、お会いしましょう。(2018.2.21開催、2.25記)

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