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第45回 東京小説読書会の報告


※ネタバレ注意※ こんにちは。Uranoです。 通算11回目の課題図書型読書会はオノレ・ド・バルザック著、平岡篤頼訳、新潮文庫版『ゴリオ爺さん』にて行いました。近年、経済学者のトマ・ピケティが『21世紀の資本』(みすず書房)で引用したことで注目を集めている古典の名作です。 しかしテーマに選んだのは、そういった理由からではありません。今回は当会の常連さんの積読本からお選びいただきましたが、推薦の辞は「モームが書いた『世界の十大小説』のひとつでもあるし、ツッコミどころが多い作品のほうが、読書会の課題本にふさわしいと思ったから」というものでした。

確かに『ゴリオ爺さん』は、 「主人公はラスティニャックじゃないの?」 「ヴォートランの逮捕状、いつの間に出ていたの?」 などなど、ツッコミどころだらけ! 全体の印象も、誰に注目して読むかで、悲劇なのか喜劇なのか変わってくるでしょう。

新潮文庫版は2005年改版で500ページ超。改行が少なく、重量感あふれる一冊ですが、こうしてツッコミながら読んでいくと、意外にもサクサク進んでいきます。 全体は4章構成で、第1章は、パリの下町にある下宿屋ヴォケー館の概要と、そこに暮らす人々のプロフィール紹介。ゴリオ爺さんは、ここの4階に住んでいます。(この第1章がとにかく冗長で苦痛です。でも、ここを乗り越えればスピードがあがります!)。 第2章で、ゴリオの隣に住む法学部生ウージェーヌ・ド・ラスティニャックの社交界デビューが語られ、第3章では3階の住人にして、実は脱獄囚だった四十男ヴォートランの逮捕劇があり、第4章でゴリオの臨終、といった展開です。

●どこが悲劇なのか 新潮文庫版はカバー裏のあらすじで「その孤独な死を看取ったラスティニャックは……」と、オチを堂々と明かしています(それにならって本報告でもオチを堂々と書いてしまいました……)。 たしかに結末の「孤独な死」は悲しげでしたが、全体を通してみれば、私はそれほど悲劇性を感じませんでした。しかし参加者からは「途中からゴリオ爺さんがかわいそうでツラかった」と同情する声があがりました。 「娘2人はゴリオの投資を受けて、裕福に暮らしているのだから、お父さんにやさしくあたってもいいと思った」 「ゴリオの行為は投資とは言えない。むしろ、愛人が博打でスッたことが原因でたかられても、『やさしい娘だから』と信じきっているところが悲しい」 「親ってそこまで娘のことを思えるのかと思った」 といった具合に、ゴリオの不憫さについての感慨から、本日の読書会はスタートしました。

●200年の隔たり 『ゴリオ爺さん』の物語の始まりは1819年11月。今から198年前です(刊行は1835年)。三角関係は当たり前で、当事者の3人が堂々と顔を合わせて話し合うシーンもあり、「200年前の話だものなぁ」と、価値観の違いに戸惑うこともしばしば。 その一方で現代とたいして変わらない描写も。その一つとして参加者が挙げられたのが、 〈資本を事業に注ぎこんだっていうんだな? それなら、やつの損得は、有価証券とか、借用証書とか、契約書とかの形になっているはずだ!〉(p.401)というセリフです。

ここに描かれている有価証券や借用証書はまさに現代の用語ですし、そもそも資本主義社会が形成されていたことを示す描写になっています。訳語は訳者が今の言葉を当てただけなのかもしれませんが、「200年前の人たちも、今と同じように暮らしていたんですね」と、しみじみ読みふけることができました。

また、当時の社会が生々しく描かれていることに関して、「私たちが東野圭吾を読んでいる感覚で、200年前のフランス人はバルザックを楽しんだのかな」と、思いをめぐらせる声も聞かれました。

●娘思いのお父さん 「ゴリオは2人の娘に愛されていないことに、いつ気づいたのだろう?」 これは本作を読み進めるうえで湧き上がる、最も大きな疑問の一つでしょう。私はてっきり、長女アナスタジー(レストー伯爵夫人)は父を疎んでいるが、次女デルフィーヌ(ニュシンゲン男爵夫人)は“お父さんっ子”だと思いながら読んでいました。ゆえに臨終の場面で、デルフィーヌが舞踏会を優先してゴリオを看取らなかったことに「なぜだ」と思ったわけですが、要は「父親は金づるにすぎない」と見ていたからなんですね。「気づけよ!」と、自分で自分を突っ込んでしまいました……。相変わらず、読みの浅さを露見してお恥ずかしい。 ※ちなみにラスティニャックも物語終盤で「少なくともデルフィーヌのほうは、父親を愛している!」と発言してますよ!(p.430)

それはともかく、娘に私財を投じ、貴族夫人にまで仕立ててくれた恩人ともいうべき父ゴリオに対し、2人はあまりにも冷たい。けれどもゴリオは「いい子たち」と信じきっていている。 でも、それは本当に、心の底から思っていたことなのでしょうか? もしかしたら、娘2人から愛されていないと感づいていたのに、気づかないフリをしていただけなのでは?

このあたりは読者によって意見が異なるところで、面白いですね。

●善意のウソ 父娘の距離に関して、ラスティニャックが、デルフィーヌからの言伝をゴリオに報告するシーンがあります。 〈「あの子がいったいわしのことを、何と言っていましたかね?」  学生は男爵夫人の言ったことを、さらに美化して繰返してやった。そして老人は、まるで神の言葉でも聞くみたいにそれに耳を傾けた。 「かわいい娘! ええ、そうですとも、わしをとても愛しておるんですよ」〉(p.228)

デルフィーヌは本当に「神の言葉」のようなことを言ったのでしょうか。それとも、言ってもいないことをラスティニャックが気を利かせて盛ったのか。はたまた、正反対のひどい言葉を投げつけたので、ラスティニャックが上方修正した結果なのか。

こうした具合に、文字で書かれていないところで起きた出来事まで考察していくと、小説の読み方は無限に広がります。しかも何人もが集まって感想を言い合えば、その楽しみは何倍にも増えます。課題図書型読書会がおもしろくて、やめられない理由です。

●名言がいっぱい 本作では至るところに名言・格言がちりばめられていて、「名言だけで1冊の本になる」と思えるほどです。 参加者が挙げた主な名言・格言は以下の通りです。

〈若人というのは徹夜で勉強しようと心に誓っても、十日のうち七日は寝てしまうものである。二十歳以上でないと徹夜することはできない。〉(p.61)

〈人間の心というのは宝の蔵なんだわ、それをいっぺんに空にすると、破産してしまうのよ。あたしたちって、びた一文も持っていないひとを容赦しないと同じように、感情がすっかりさらけだされるのも赦せないようにできている。〉(p.134)

〈青年というのは、不正のほうへ傾くときには、自分の姿を良心の鏡に映してみる勇気がないが、壮年は、すでにそこにおのれを見たことがある。それが、人生のこのふたつの段階の違いのすべてなのである。〉(p.202)

〈美しい魂を持っていると、この世間に長くとどまっていることができないんだ。実際、どうして偉大な感情が、みみっちくて、しみったれていて、浅薄な社会などと折りあってゆけるだろうか?〉(p.464)

●最後の一言の意味は? 名言の話から、「終わり方がカッコいい!」という話におよびました。本作はラスティニャックがパリを見下ろして「さあ今度は、おれとお前の勝負だ!」と叫ぶところで幕を引きます。 「チャゲアスを思い出した。まさに『殴りに行こうか』という感情だ」という感想や、「ゴリオ爺さんはパリの社交界に負けた。だから今度はラスティニャックがその敵討ちに行こうと宣言しているのだろう」という考察、そして「続きがありそう」「ここから物語が始まってもいいくらい」などと、悲劇でありながら一歩踏み出す前向きなしめくくりに、皆さん心地よい読後感を得られたようでした。

そんなこんなで、今回も2時間の会はあっという間に終了。 タイトルは退屈そうな『ゴリオ爺さん』も、読んで損なし、むしろ読まない人生こそ損だと思える一冊でした。

当読書会は、このあと第157回芥川賞・直木賞の候補作読み比べ&受賞予想大会に入るため、7月の課題図書型読書会はお休みします。 また8月にお会いしましょう!

(2017.6.21開催、6.23記)

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